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特集「ベストコレクション」

2016年3月10日

特集「春の麗らのベストコレクション」⑩ 
桃さんのしあわせ(2012年 家族映画)

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監督 アン・ホイ

出演 ディニー・イップ/アンディ・ラウ

 

シネマ365日 No.1686

桃さんという小宇宙

60年間、梁家で家政婦として勤めてきた桃さん(ディニー・イップ)が脳卒中で倒れた。ロジャー(アンディ・ラウ)は、産まれてからずっと、アメリカに留学していた10年間除いて桃さんといっしょに暮らしてきた。今も香港のマンションで桃さんに身の回りの世話をしてもらっている。桃さんはロジャーが可愛くて仕方ない。このへんの感覚は夏目漱石の坊ちゃんとキヨの関係を思い出してもらえばよくわかる。坊ちゃんの育ての親でもあるキヨは独身、長年坊ちゃん宅で働いてきた。桃さんも家族がいる気配はない。現役で家政婦の仕事はできないと判断した桃さんは老人ホームに行くと決めた。桃さんはなんでもひとりで決める人である。「お金は自分で出します。お忙しいでしょうから来てくれるには及びません」。左半身が不自由になったにもかかわらず、掃除は自分でし、トイレにも体を引きずるようにして行く。僅かな身の回りの品を、いつも整理整頓する▼そばにいてくれて当たり前だと思っていた桃さんがいなくなった。ロジャーはこまめにホームを訪問する。彼は映画のプロデューサーである。桃さんを義理の母だと紹介し、外食に連れだしたり散歩したりする。ロジャーは桃さんといるのがだれといるより自然なのだ。だからロジャーの振る舞いには、桃さんを介護するという義務感もないし、桃さんも内心感謝はしているだろうが、たぶん、本当の息子がいても、こうは自然に受け止めていないだろう。ロジャーは桃さんの家庭料理で育った。この映画にはうまそうな中華料理が何皿も出てくる。鴨肉の詰め物、芋菓子にカニ蒸し、牛スジや牛タンの煮込み。大きな中華鍋に透明なスープを張り、切れ目の起った白ネギの刻みをいれ、ぱらぱらと色野菜を散らす。匂いが立ち上ってきそうだ。ところがホームの食事はひどいものだ。おまけに入居者たちはかなり変わった人が多い。ぼろぼろと口から食べ物をこぼし「おい、口から吐き出すなよ」と隣の席の男にドヤされている老人。「おれの入れ歯をだれか間違えた、食べられない」と怒っている男。桃さんは「新入りさん、来たときご家族がつきそっていなかったね」と聞かれた。それとなく観察されているのだ。愛想のいい男の入居者は、菓子などを持ってきては「300ドル貸してくれ」と金を借りる。桃さんは貸してやるが返してくれたためしはないようだ▼車椅子にうずくまって一日沈黙している老女たち。「故郷に帰りたい、帰りたい」といって徘徊する女。母親をホームに入れたものの、費用の負担分を払わない息子。桃さんは異世界の境遇にあきれるが、それでも不平をいわない。歩くのが遅いから「先に行ってください」と促し、ロジャーが「ここのめしはどうだい」ときくと「いいわ」。桃さんは愚痴をいわないのだ。リハビリのおかげで体の自由はほぼ回復した。ロジャーの母親がサンフランシスコから見舞いに来た。拝むように礼を述べる桃さんに「水臭いじゃないの」そして見舞金をだすが、桃さんは気持ちだけで充分であると、ガンとして受け取らない。大晦日、職員も入居者も家族にひきとられて実家に帰った。残っているのは桃さんと主任とホームでいちばん古い入居者だ。「主任さんは帰らないの?」と桃さんがきくと「下の人を帰すからわたしは残るのよ」。でも彼女にも家族はいないのだろうと桃さんは思う。ある日桃さんは指輪をはめ紅をひき、よそいきの服をだした。今夜はロジャーのプレミア上映があるのだ。ロジャーは桃さんを招待し、多数の来賓にもかかわらず、桃さんといっしょにいた。桃さんはロジャーが自慢で仕方ない。きれいな女優さんやプロデューサーのさそいも断って、ロジャーは桃さんと手をつないで、腕を組んで帰る▼桃さんの最期が近づく。胆嚢炎の手術、二度目の発作。医師は無理をせず逝かせてあげては、と言う。桃さんは眠っている。付き添っていたロジャーは、中国へ一週間仕事で行く、もしその間に息をひきとれば霊安室に安置してくれ、あとの手続きは帰ってからすると告げる。ロジャーの姉は言ったことがある。「桃さんはあなたがお気に入りだったわ。あなたにだけソーダ水をくれて、わたしにはくれなかった」「そんなこと、覚えているのか。ぼくと桃さんは恵まれていると思う。ぼくが子供のとき心臓の手術をしたときは桃さんが若くて付き添ってくれた。桃さんが年取って倒れたときは、ぼくが面倒みてあげている。神さまはきっと、最強のコンピューターで、全人類の命運を調整しているのだ」。桃さんの葬儀にはロジャー一家とホームの入居者が参列した。寸借魔のおじさんは白い花を棺に置いた。おだやかでやさしく、黙々と自分のことを自分でする桃さんをみな好きだった。原題は「シンプル・ライフ」。桃さんのような生き方は、だれにでもできるようでできない。動物のように自由で、野の花のようにつつましい。桃さんの心のなかに小宇宙がある。

 

 

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