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特集「ベストコレクション」

2016年5月12日

特集「風光る五月のベストコレクション」⑫ 
ヴィヴィアン・マイヤーを探して(上)(2015年 ドキュメンタリー映画)

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監督 ジョン・マルーフ/チャーリー・シスケル

 

シネマ365日 No.1749

伝説が歩き始める 

特集「風光る五月のベストコレクション」

2007年シカゴ在住の青年ジョン・マルーフがガレージセールで古いネガのつまったダンボールを380ドルで落札しました。撮影者はヴィヴィアン・マイヤーとしか、わからなかった。マルーフは彼女と彼女の写真が妙に引っかかり、捨てる気にならなかった。ふと思いついてネットに投稿した。嵐のような反響だった。絶賛だった。マルーフは励まされ、どんな人物がこれらの写真を撮ったのか、もう一度検索すると、死亡記事がヒットした。ほんの数日前の2009年4月21日、彼女は永眠していました。83歳でした。ここからマルーフの「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」旅が始まります。このドキュメントは第87回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされました▼この天才女性写真家の存在が世に知られたのは、一にも二にも、ヴィヴィアンと彼女の写真に魅せられた、マルーフの努力と情熱によります。彼はヴィヴィアンを求め、彼女の母がフランス人であり、ヴィヴィアンはフランスの小村で生まれ少女時代を過ごし、母親がカメラを持っていたこと、母親の故郷シャンプサーにはヴィヴィアン・マイヤーミュージアムができたこと、アメリカに来てからヴィヴィアンが家政婦として働いたニューヨークや、ミネソタ、シカゴに行き彼女が働いた家の家族や子供たちに取材しました。倉庫にしまいこまれたままの遺品は、クーポン、メモ、チラシ、帽子、コート、ブラウス、税金が還付された数千ドルの小切手、10万枚のネガ、700本のカラ未現像フィルム、2000本の未現像モノクロフィルム、8ミリと16ミリのフィルムが150本。膨大なフィルムとマルーフは未だに格闘しています。あまりの数の多さに、美術館の協力を得ようとしたマルーフは拒否され、自分一人でヴィヴィアン・マイヤーの全貌を解明してみせると腹をくくります。どうしてもヴィヴィアンの写真を世間に見せたかった。マルーフはシカゴ文化センターでヴィヴィアン・マイヤー写真展示会にこぎつけました。それは同センター美術展史上最高の入場者数を記録したのです。こうして伝説は生まれ、伝説は始まり、伝説は歩き始めたのです▼マルーフがヴィヴィアンの生活を知る手がかりにしたのは雑多なレシートでした。1970〜80年代のものでした。彼はレシートの宛先を訪ねヴィヴィアンの過去にさかのぼりました。「とにかく変わり者だった」「背の高い女性で、腕を大きく振って歩き、いつもカメラを首からぶら下げていた」「彼女は自分の話を嫌い、身の上話を一切しなかった」「子供たちをこれ以上ないくらい可愛がったわ。子供達は真から慕っていた。優秀だった」「自分の知性とものを見る目を隠していた」と思うと、「いやな女だった」「男にひどい目にあったに違いない」「食べ物を落とすとヴィヴィアンに口に押し込まれた」。多様なヴィヴィアン像が語られる。子守をしている子供が車に跳ねられ道路に倒れた。大したことはなかったが、母親が駆けつけたとき、ヴィヴィアンはまるで次元の違う人間のように、平然と写真を撮っていた。ヴィヴィアンは1959年のある日、飄然と旅に出た。「しばらく留守にします。戻るのは8か月です」そう言い残し、彼女はインド、イエーメン、南アメリカを一人旅した。彼女の愛機はローライフレックス、二眼レフだ。一種の隠し撮りカメラと言っていい。下から撮るので被写体はそそり立つような迫力を帯びる。ストリート写真家は雑踏に溶け込み、自分はレンズの後ろに姿を隠す。彼女は膨大な作品をなぜ発表しなかったのだろう。この問いに答えられた人は、未だにだれもいない。ヴィヴィアンを知る人で、彼女がアーティストであると、一瞬でも思った人は一人もいなかった。彼女は子守であり、住み込みの家庭教師であり、貧しく、結婚もせず、夫も子供もいない女だった。彼女は暇さえあれば新聞を読んだ。彼女が住んだ部屋はどれも床から天井まで新聞が積まれていた。彼女が読む記事は、殺人、児童虐待、女性虐待、レイプ、殺人幇助、生きることの不条理や、人間の負の部分、グロテスクな部分を知らせる記事だった。新聞には人間の愚行が溢れていた。ヴィヴィアンはレンズを通して、人間の、どうしようもない不気味さと愚かさを見ていたのだ。

 

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