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特集「美しい虚無-妄想映画の魅力」

2016年5月27日

特集「美しい虚無=妄想映画の魅力3」④ 
女の都(1981年 社会派映画)

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監督 フェデリコ・フェリーニ

出演 マルチェロ・マストロヤンニ

 

シネマ365日 No.1764

トンネルからトンネルへ 

特集「美しい虚無=妄想映画の魅力3」

「僕はだめな男だ。救いがたい」と主人公のスナポラツは嘆く。こういう男性をやらせたら、まずマルチェロ・マストロヤンニの右にでる役者はいないですね。女に翻弄される、それが嫌いじゃない、むしろ歓びであるが、反比例して女の実態を把握し見誤ることはない。こういう男性をマゾというのはまちがいで、もちろんサドではない、一言でいえば繊細で心やさしく、どこかに理想とする女性がいると思い続ける。要は懲りないのである。はたからみれば調子よくて、優柔不断にもみえ、依存心が強くどうしようもなく頼りなげに思えるが、性格は誠実で世間をはばかるあくどいことは決してしない…それに、こういう男性でないと安らげない女性がいることも事実なのだ。世間にはあんなヘタレ男になぜあんなしっかり者の女が尽くすのか、首をひねる構図がよくあるが、じつは女のほうが惚れていることが多い▼フェデリコ・フェリーニは、映画のおもしろさ、女性への愛とあこがれ、自ら思い知る男のやるせなさ、アホさ加減を放胆に映像にしたら、こんな映画になったという感じだ。フェリーニ版「男はつらいよ」の趣すらある。映画の前半はフェミニズム賛歌、後半は男性の巨根賛歌である。フェリーニのこの現実感覚の公平なこと(笑)。彼の映画は社会的な逸脱を描きながら教養にあふれ、逸脱のなかにせちがらい世を生きる真実とユーモアが融け合っている。主人公スナポラツはこう慨嘆する。「女の正体はわからない」そこへ老婆が現れ「あれに乗るのだよ」と気球を示す。「巨根博士が用意してくれたのだよ。あれに乗れば夢見た女が見つかるよ」。スナポラツは半信半疑ながら気球に乗り込む。華やかなグラマラスな女体の気球というおふざけである。主人公は劇中コテンパに女性たちにやっつけられたにもかかわらず、性懲りもなく理想の女がいると思っている▼彼はどんな批判を妻から浴びたか。「何度言っても服を着替えずに寝る。知っているのにわざと答えない傲慢な態度。女性の話を聞かず性的欲望を与えることができない。自分の女性的な部分を認めず、周囲に目をむけず、オナニーに没頭する。自分に甘く大事なことを話さず、結論をださず、どうでもいいことばかり話す。性や体毛やあまりにマニアックな嗜好を持ち、ひとりの女性のために尽くせず、どこかに理想の女性がいるという幻想を捨てきれない」ほとんどフェリーニの自画像にちがいない。主人公が最初に踏み入った部屋では数十人の女性がいた。パンクでありダンディである。「わたしたちのヴァギナは重なりあう花びら、美しいバラよ。太陽の舌、月のスミレ、人生の微笑み。男性はそれに、割れ目・穴などと汚名を着せた。古代ギリシャ彫刻の、男性自身が女をつきあげ、女の体を支配する体位は、女が抑圧され続ける構図よ。コロンビア大学では今、男女平等な体位の研究が進んでいる」「清らかな女に淫らな娼婦。汚れなき天使に快楽の道具。女の二面性をされるこれらは男の勝手な解釈よ」「幸福な主婦の日常とは、みて!」と寸劇を示す。そうじ、選択、アイロンかけ、子供を風呂にいれ、料理を作って夫に食べさせ、休むまもなく皿洗い、授乳、ミシン踏み、追いまくられあたふたとセックスする。だれかが叫ぶ「結婚は悪夢だ」▼「女の都」をでた主人公は「巨根博士」と名乗る男の館に招かれる。かれは女をケチョンケチョン。邸宅の庭、室内、いたるところに堂々たる男性自身のオブジェが。彼は叫ぶのだ。「女どもよ。醜く老いるがいい。さっさと早死しろ!」。広間では博士が1万人の女をモノにした「1万人記念祝賀パーティ」が開かれようとしていた。なぜか主人公の妻エレナもいた。宴が盛り上がったときに女性警官隊が踏み込み、警告にもかかわらず違法建築であるこの屋敷を取り壊そうとしない、いまから豪邸を破壊すると宣告する。女性たちへの別れの歌をうたいながら博士は死ぬ。まだ女体型気球が撃ち落とされるエピソードがあるのですが、もうこのへんで(笑)。本作の始まりは、主人公が列車の向かい側にすわったグラマラスな女性から目が離せなくなり、途中下車した彼女を追って森のなかへ、そして「女の都」に到着したところでした。同じ列車のなかで主人公がハッと気がつくと、向いにいるのは妻で、彼にいろんな夢をみさせたグラマーな女性は妻のとなりに座っています。つまりは映画全編が主人公の夢オチだったわけです。フェリーニの結論は明白ですね。主人公は妻に尻を叩かれながら、現実かイマジネーションかはともかく、せっせと女性探求を続ける。汽車はトンネルに入ってトンネルを出て、またトンネルに入り、出て行く。男と女の人生、これの繰り返しってことなのね。

 

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