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特集「フリーク/変態の詩人たち」

2016年6月29日

特集「フリーク/変態の詩人たち2」⑤ 
イレイザーヘッド(1981年 社会派映画)

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監督 デヴィッド・リンチ

出演 ジャック・ナンス/シャーロット・スチュアート

 

シネマ365日 No.1797

哀しくてやるせない 

特集「フリーク/変態の詩人たち2」⑤|監督 デヴィッド・リンチ

デヴィッド・リンチの映画はどれもみな「カルト」という枕詞がついているうえ、説明を拒否しただ体験すべし、といわれているようで、本当に書きづらい。ならば、どう書こうと勝手だろうといえばいえるのに、ところどころ、妙にわかりやすいスペックを入れて、スクリーンの妄想を現実に引き戻す、そういう、まるで貘蓮女のような手口を駆使するところが腹ただしい(笑)。イレイザーヘッドについては、見ながら、本作以後のディンチの映画の「おや、ここはマルホランド・ドライブ」に、「ここはブルー・ベルベットに」と思い当たる箇所がいっぱいありました。製作と苦しい生活を共にした奥さんのペギー・リーヴィは、当時を振り返り「昔から信じられないくらいの働き者だった。一心に打ち込んでクタクタになるまで働き続けた」と回顧していました▼本作を完成させたとき、リンチは31歳だった。5年かかったというから、彼の20代の後半は「クタクタになるまで」おそらく本作に費やされたと言えます。映画はどの一箇所を取っても、凝りに凝った作り方です。リンチはどうやって作ったかについては、現在に至るまで「手品のタネ明かしはしない」で一貫しています。フィラデルフィアの工場に働く、印刷工のヘンリーが映されるのはいつも夜であり、彼の部屋は狭く、完璧に閉ざされた空間でした。でないと彼の妄想、と言って悪ければ想像力は結晶しないのです。そしてスクリーンにはぽっかりと黒い穴が広がり、筋書きをちょん切るように溶暗に包んでしまう。「マルホランド・ドライブ」でナオミ・ワッツを飲み込んだ黒い箱、怪しげな老夫婦二人が気色悪い笑いを発しながら現れる闇の奥、夜と闇の空間はリンチのなくてはならぬ「玉手箱」に違いありません。凝りに凝った、と書きましたが、夢中になって作った精緻なカラクリには、出来栄えをどうの、こうの、言う前に引き込まれてしまう。映画はほぼ工場とその近くにある、小さな人知れぬ場所で推移します。人物はみな貧しく不幸そうで、夢も笑いもない。ヘンリーはヨレヨレの黒い背広を着て、汚い部屋に妻のメアリーと生まれたばかりの子供を育てている。メアリーの妊娠がわかって彼女の両親に「娘を引き取れ」と言われ、ヘンリーはちゃんと引き受けたのだ。嬰児はエイリアンの子供みたいで、ツルツルの卵型の頭をして妙な鳴き声を発し、ニョロッと出た首から下は包帯でぐるぐる巻きだ。メアリーは「たまにはあなたが面倒見たらどうなの、わたしはもう疲れ切ったわ」と怒りにまかせ出ていった。向かいの部屋にはいかにも訳ありの美人が情人を出入りさせている。ヘンリーは子供を可愛がり、スプーンでおかゆのようなものを食べさせるが、いきなり子供の顔に大きなブツブツが吹きでて「病気じゃないか」と叫ぶ▼本作で映るのは、どこを見ても明るい健康な人物や空気などかけらもない「失われた場所」です。町には車も通らず、線路は廃線となり、人が歩いている気配もない。ところどころ窓に明かりは灯ってはいても、町全体が空き家のような寂しさだ。こんな場所に誰が住みたいと思うか。そうなのだ、この映画を見ている限り、わたしたちは現実には誰も住めるはずのない、住もうとも思わない異世界、希望も活力もない異世界に滑りこまされてしまう。そこは人工頭脳のデータや、ゲノムの配列や集積や分析が、きれいさっぱり無効になる世界であり、魔的なものが復活する場所なのです。リンチの映画の前に座った、わたしたちの場所とはね。気取った言い方をすれば、シュールレアリズムが美術史の定型を破壊したように、映画の定型をも破壊しようとした試み、とでも言えばいいのでしょうか。少なくともその欲望をあからさまにすることに、リンチは5年間「一心に打ち込んだ」のですから▼いずれにせよ、日常的な現実に根ざした安らぎや憩いはない。登場人物たちは、知性や合理主義が面倒くさく、そんな理屈が陳腐で仕方ないというふうに、妄想やエクスタシーに飛び乗る。バイクに飛び乗るように飛び移る。この陰気臭い、しょぼい映画に、なぜそんな躍動感を感じるのだろう。部屋に唯一ある家具といえば、小さな観音扉の箱です。ヘンリーが扉を左右に開けると小さな白い、ウジムシよりちょっと太めの虫がくねくねと身をよじっている。こんな映画に付き合いたくはないと思いながら、ヘンリーの首がちぎれたり、ちぎれた黒い穴から胎児のツンツルテンの頭が顔をのぞかせたり、ホッペタに大きなコブのある女性が、誰もいない劇場のステージで踊ったりするのを見る。やっと気がつく。リンチの映画とはどの作品もみな「別世界に通じる道」なのだ。わたしたちの、豊かであり、過酷であり、薄情であり、愛があり、悲しみや絶望に満ちた現実とは異なる次元にもまた生きる世界はある、浅はかな妄想かもしれないが、それによって人生の何分の一かを人は組み立てている、成り立っている、妄想なくして人生も、そしてこれが大事なことなのだが、現実もない。現実なんかどこにもない、あるのは認め方だ(笑)。だからこの映画はリンチが何を言いたいかなんて考えても、馬鹿馬鹿しくなるばかりで、面白くもおかしくもない、これは感情で見る映画です。自分の感じるように感じるのがいちばんいい。わたしの場合? 湧いてきたのは、やりきれない哀しみでした。

 

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