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特集「銀幕のアーティスト」

2016年12月20日

特集「銀幕のアーティスト6」②
エゴン・シーレ/愛欲と陶酔の日々(下)(1983年 事実に基づく映画)

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監督 ヘルベルト・フェーゼニー

出演 マチュー・カリエール/ジェーン・バーキン/クリスティーネ・カウフマン

シネマ365日 No.1971

心かき乱す絵 

特集「銀幕のアーティスト6」

散々こき下ろしておいてこう書くのは自分でもナンですが、それにしてもシーレの絵は美しい。たとえ嫌いでもグロテスクでも、美しいものは美しいのだ。バリー(ジェーン・バーキン)が信じたのはエゴン・シーレ(マチュー・カリエール)という、実生活の薄情者ではなく、そんな男の描いた、闇の中の花束のような絵の美しさだった。肖像画を得意とするように思われるシーレだが、彼の風景画にはどうにもこうにも、立ち止まらざるをえない衝撃感がある。その風景の中をブラブラと歩きたくなるのがいい風景画さ、そういったのはルノワールだが、シーレの風景画など、歩きたくもなければそこに行くすべも見出せない、メルヘンのような幼さと頽廃を放つ人工の世界なのだ▼考えてみればシーレほど、自然を歪曲した画家は少なかった。確かにダリやキリコはいるが、彼らの作品のイマジナリーな領域は、風景画というより妄想画である。シーレに「四本の木」という風景がある。丘に木が4本立っていて、背景は入り日だ。空の青さが数本、刷毛で刷いたように筋になって残り、オレンジ色の太陽が遠くに沈みかけている。4本の木のうち1本は、すっかり葉を落とした梢を夕空に伸ばしている。製作は1917年。バリーと別れた後だ。ナルシストのシーレのことだから、葉のない木は自分のことかもしれない。かくのごとく孤独で、すっかり葉をちぎられても雄々しく立っている自分。それとも葉のない木はバリーで、かわいそうなことをした、今ごろきっとこんな寂しい姿になっているに違いない、とでも思っているのか。なんでもいいが、末世のような諦観が漂うのである。まるで「ターミネーター」の「審判の日」ではないか。バリーは1918年、ダルマチア戦戦の野戦病院で死んだ。同時期、シーレは画家としての絶頂にいました。ウィーンで開いた初の展覧会は大成功、好評を博し「シーレの絵は陰惨でおぞましい」という批評さえ、新しい時代の画風への賛辞となった。妻は懐妊、新しい家族を待ち望んだシーレは、まだ生まれてもいない赤ん坊のいる「家族の肖像」を描く▼好事魔多し。スペイン風邪が大流行し、バタバタと死人が出ていた。妻エーディットが感染する。高熱を発し、シーレはつききりで看病するものの、病状はあっという間に進み、医師は首を振る。看病に疲れたシーレがベッドのそばを離れたときに妻は息を引き取った。駆けつけた母親は「うつされたのよ、キスなんかするから」とまるで嫁が悪いみたいにいうが、キスどころかシーレは死にかけている妻の求めに応じているのである。姉は(一説には妹)はシーレと近親相姦にあったというくらい親密だった。このときもシーレに「エゴン、力をつけなくてはダメよ」とスープを飲ませたり、汗を拭いたり。シーレは「戦争も僕も終わりだ」と詩的でもロマンティックでもない言葉を残して死ぬ。妻は「1918年10月27日 わたしはあなたを激しく愛しました。これからも永遠に限りなくあなたを愛します。あなたのエーディット」と、心からシーレを愛した証を残しているのに。シーレが死んだのは10月30日だ。妻の葬儀の日だった。付き添っていた姉が「エゴン、エーディットの棺がきたわ。いま窓の下を通っているわ」と教えた。その声が聞こえたのかどうか、「エゴンが死んだ」という姉の叫びで映画はエンドだ。28歳だった▼はっきりいえば、エゴン・シーレとはサイコ男だった。関わったら最後、奈落に引きずり込まれるような男だった。危険なのに柔らかく、繊細でデリカシーで、所帯くさい男とはもちろん、ただ狡猾な男とも全然ちがう、甘い、鋭いフェロモンを発していたのだろう。それに、あの絵。小さな美術館が、高品質なシーレの展覧会を開催したことがある。見に行ったとき「触らぬ神にタタリなし」そう思いながらも、強い磁場を放つ、心かき乱す絵の呪縛から逃れがたかった。

 

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