女を楽しくするニュースサイト「ウーマンライフ WEB 版」

  • facebook
  • twitter
  • line
  • rss

特集「銀幕のアーティスト」

2016年12月24日

特集「銀幕のアーティスト6」⑥
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎(上)(2008年 ドキュメンタリー映画)

Pocket
LINEで送る

監督 ジェシカ・ユー

シネマ365日 No.1974

ヘンリー・ダーガー

特集「銀幕のアーティスト6」

暗闇の中を手探りで進んでいくと、薄明の中にぼんやり浮かんでいるものがありました。なお進んでいくと、それが大陸のような作品群だとわかった。絵画に自伝に日記、おびただしい写真資料、切り抜き、絵本。巨大な謎の塊を、ジェシカ・ユー監督は根気よく切り崩し、足掛け5年。ついに「非現実の王国」というとてつもない全貌を捉えた彼女の熱意に、心からの敬意を表します。彼女はヘンリー・ダーガーというアーティストに、自分の分身を見いだしたはず。彼女だけではない、ヘンリー・ダーガーの中には、およそホモ・ルーデンスたる人間の求めてやまない、熱い深い魂の根源があると思えるのです。誰に強いられたわけでもなく、誰に教えられたのでもない、17歳のときから83歳まで、家族もなく、というより人との関係を拒否して、救貧院で息をひきとるまで描き続けた、1万5000ページにのぼる「非現実の王国」という物語と挿絵。それは、あらゆる解析をも飲み込む豊かな混沌をたたえ、わたしたちの脳内世界を刺激してやまない、天使と蛇が絡み合うようなエネルギーに満ちています▼ダーガーが死んだとき「貧しい年寄りの掃除夫」以外に、誰も何も彼について知らなかった。隣近所のごく限られた人だけが、ダーガーの最後の友人でした。ユー監督がときにダーガーの一人称で、ときに三人称で構成した彼の生涯を追うことにします。「彼はひどい引きこもりで、自分の、彼だけの別の世界で生きていた。彼はそれを<非現実の王国>と名付けた。戦争と抑圧に反乱を起こす子供奴隷の物語で、リーダーはヴィヴィアン・ガールズと呼ぶ少女7人だった。すべての場面に関わる構想は、ダーガーの少年時代や戦争の体験が織り込まれている。彼は小柄な男性だった。一年中くるぶしまである、あちこち縫ってあるコートを着ていた。第一次大戦の軍用コートだった。彼は手先が器用だったから、針仕事は上手で、見た目には彼なりに精一杯気を配っていたのだろう。近所の人は彼を「ダーガーよ」「ダージャーだろう」「ダージャリアだよ」といい、本当の呼び方さえ知らなかった▼1892年4月12日、彼はシカゴで生まれた。自伝には「父はわたしを小さな二階屋に住ませた。彼は仕立屋でやさしく、気のいい人だった。クリスマスには絵本をプレゼントしてくれた。わたしは学校に上がる前から本が読めた。すべての大人はわたしの足元にも劣った。冬は一日中窓辺に立ち雪を眺めていた。わたしは強情で癇癪持ちで、思い通りにいかないと気がすまなかった。よく目の中に炎があると言われた」。ヘンリーが8歳のとき、父は体を壊し救貧院に収容された。ヘンリーは少年施設に。勉強熱心でおとなしい子だった。口や鼻を鳴らす奇妙な癖があり、それを嫌がる級友らが、止めないと袋叩きにすると脅しても止めず、余計大きな音を鳴らした。防御のためいつも棒を持っていた。人に不快を与える変わった言動でヘンリーは退学処分となり、イリノイ州郊外の知的障害者の施設に送られた。7年間そこにいたヘンリーは脱走を試み、シカゴまで6月から8月まで掛かって260キロを歩いた。ただ故郷に帰りたかったからだ。父は死に、帰る家を失い、ヘンリーは聖ジョゼフ病院の掃除人の仕事についた。17歳だった。彼の望みは究極の物語を書くことだった。1909年、生涯続けることになる物語と挿絵の叙事詩「非現実の王国」に着手した▼ヘンリーは独学で、技法を編み出した。新聞・雑誌の収集も熱心だった。コラージュ、コピー、トレースを駆使し、彼の頭の中のイメージを描き出した。時々彼の部屋から夜遅く、何人もの話し声が聞こえた。彼がひとり何役もやり、登場人物になりきってしゃべっているのだ。兵役も彼の想像力の素材でしかなかった。ヘンリーの最後の大家であるキヨコ・ラーナーは「彼にとって他人は存在しなかった。顔を合わせても、いつも天候のことしか話さなかった」。彼女は人に受け入れられること稀だったヘンリーの、数少ない理解者となる。少女たちにペニスが付いているのは、少年と少女の区別がつかなかったためだろうといわれる。美を描く彼の能力は同時に残酷なものも描破する力となった。戦争で虐殺された少女たちは腹を割かれ内臓が露出し、血みどろのまま吊り下げられている。

 

Pocket
LINEで送る