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シネマ365日

2017年2月12日

特集「二度と見たくない傑作」③ 
仮面/ペルソナ(1967年 ファンタジー映画)

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監督 イングマル・ベルイマン

出演 リブ・ウルマン/ビビ・アンデルセン

シネマ365日 No.2024

安らぎ 

二度とみたくない傑作

妄想することによって人は人生を成り立たせている、あるいは妄想によってしか人は自分を解放させない、という確固とした信念が、ベルイマンのすべての作品の基調にあります。妄想とはその人の救いであり、詩であり、物語であり、現実と表裏一体をなし、どっちかを引き剥がした生活も人格も存在しない、その主張が特に際立っているのが本作だと思えます。公開当初からエリザベート(リブ・ウルマン)と、アルマ(ビビ・アンデルセン)は同一人物ではないかという意見がありました。でも病院の理事長という女性が登場し、看護師のアルマに同行させ、エリザベートを自分の別荘に療養にやらせるのですから、看護師と女優が同一人物であるとするには無理がある。ではラストシーン、それまで一緒にいたはずの二人なのに、別荘を片付け荷物をまとめ、バスに乗るのはなぜアルマ一人なのか、エリザベートはどこへ消えたのかという疑問が生じます。ベルイマンという監督、どうしてこう、お騒がせが好きなのでしょうね▼エリザベートは「エレクトラ」公演中、舞台の上で突然言葉が出なくなった女優です。入院して担当になったのがアルマである。アルマは25歳、婚約者が居て母親も看護師だった。エリザベートを受け持って何やら胸騒ぎがする。眠れなくて自分に言いきかす。「わたしはカールと結婚し子供をつくるの。悩む必要などない。幸せよ。仕事もやりがいがある。喜ばなきゃ。そう、わたしは幸せなの」。すでにこのあたりから、エリザベートとは不安と妄想を掻き立てずにはおかない女性として扱われます。失語症から立ち直れないエリザベートを理事長はこう見ている。「いつも演技という仮面で自分を隠してきたあなたには自分をさらけ出したい欲望がある。でもできない」そらそうです。自分をさらけ出す演技という矛盾を抱えるのですから。「誰もあなたの真の姿に関心がない。皮肉なことに、あなたが安心できるのは演技しているときだけ。だから口をつぐんだのね。自分の弱さを逆手にとって。気がすむまで芝居を続けなさい。いずれ飽きればやめるはず」まったく覚めた人です▼1シーンしか出ない理事長は重要な役割です。ベルイマンの映画はわかりにくいという定評通り、本作だって公開直後から、ヒロイン分身説やらドッペルゲンガー説やら、半世紀以上たった今でも多岐の解釈を提供していますが、本作に限って言えば、途中いかなる複雑な屈折を経たとしても、とどのつまりヒロインは「療養も飽き飽きした、体調もよくなったし、そろそろ仕事に戻らなくちゃ」と思って舞台に復帰する、つまり彼女が再び仮面をつける着地点を、理事長は示しています。観客の混乱を防ぐために。ならばいつも論議の的となるラストシーンはどうなのだ、二人で過ごした別荘生活の後かたづけをしているのがアルマ一人で、大きな荷物を積み込んで帰路のバスに乗り込むのも彼女だけ、エリザベートはどこに消えたのだ。知らないわ。だけど最後のラッシュで女優をやっているエリザベートが映るのだから、彼女、舞台に戻ったのよ。二人だけの別荘療養で気力を降り戻して。ならばあのややこしい二人劇は一体何が言いたかったのだ? それこそベルイマンがねじり鉢巻きでこしらえ出した妄想であり、幻想であり、脳内劇場であり、ベルイマンの作り出した「美しい虚無」よ▼彼の格調高い幻想を、地べたに引きずり下ろすようで気がひけるのだけど、アルマとエリザベートがお互いを自分の分身のように感じ始め、しょうもない理由でアルマが一方的に怒るとか、エリザベートの旦那が別荘にやってきて、アルマをエリザベートと思い込んで話し、寝る、それをエリザベートは背中を向けて見て見ぬふりをしているとか、いろいろあるわ。確かに。あるのだけど、気の合った二人が身の上話などして、理解を深めていけば当然生じるなりゆきでしょ。お互いが馴れてケンカするようにもなり、言い争うようにもなる。看護師として患者の悩みごとを聞く一方だったアルマが、エリザベート相手に自分の身の上を思う存分話せて心が軽くなる、エリザベートは言葉こそ喋れないが、聞き上手でやさしくうなずき、アルマの言葉を吸い取ってくれる。失語症って大体ストレスが原因でなる心因性のものでしょう。頑なに心を閉ざしていたエリザベートが、アルマという相方を受け入れ、肩を揉んでやり、胸に抱き寄せる。ゲイっぽい雰囲気もあるのだけど、ベルイマンの目的はゲイ関係を描くことじゃないから、そうはならないのよね。中絶経験や育児ノイローゼや、母性の欠如などについて、どっちも今まで抑圧していた過去を打ち開ける。エリザベートは話せないから、アルマが成り代わってエリザベートを代弁する、このあたり、お互いがお互いにのめり込んで、精神的に際どいところまで行くけど、アルマが「私は看護師のアルマよ。あなたじゃない」とはっきり幻想から決別する。看護師の制服に着替え「わたしは負けない。あなたのように(幻想に逃避するようには)決してならない。取り込まれない。わたしは他人を見捨てず、忠告してあげるのよ。あなたにはなんと言えばいい? 言葉は吐き気や苦痛をもたらすだけね」。舞台女優として言葉の世界に生きてきたエリザベートに対して、ひどい責め方であり、エリザベートは怒って平手打ちをくらわし、アルマも負けずにバンバンと叩き合うくらいだから、正気に戻っているわよ。ベルイマンは二人の女がお互いを見つめ触れ合う、美しい映像を残しています。お互いを他人に思えない、魂を一つにしたような存在であることを示しています。いろんな言い方ができるでしょうが、エリザベートとアルマによって、アルマはエリザベートによって、お互いを解放しあい、安らぎを見いだし再出発しています。ベルイマンが下す結論は、仮面(ペルソナ)とは、他人の仮面をつけたもう一人の自分であり、自分にしか見えないもう一人の自分でした。他人という仮面に装われた、自分の素顔や分身を垣間見て、密かにぎょっとした不安は誰しもにないでしょうか。それを美しい女性二人で劇化したことが、ベルイマンの美意識なのでしょうね。

 

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