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特集「偏愛力」

2017年7月31日

特集「偏愛力2」⑦
ヒッチコック/トリュフォー(2016年 ドキュメンタリー映画)

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監督 ケント・ジョーンズ

出演 マーティン・スコセッシ/デビッド・フィンチャー/アルノー・デプレシャン/黒沢清/ウェス・アンダーソン

シネマ365日 No.2193

ヒッチコックの悪夢 

25-28_偏愛力2-2

フランソワ・トリュフォーが映画の神様として尊敬しているヒッチコック、愛に溢れています。1990年初版が発行された「定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー」が元になっています。トリュフォーのヒッチコックへのインタビューは1962年。ヒッチコックの音声の入った貴重なテープが入り、マーティン・スコセッシやデヴィッド・フィンチャー、黒沢清、ウェス・アンダーソンら10人の監督のインタビューも入っています。一言でいうとヒッチコック賛歌です。長らく映画の教科書として読み継がれてきた本ですし、それが生まれた現場を撮ったのですから、興味津々です。いちばん面白かったのは、本ではつかめなかったヒッチの肉声と言葉が聞けたこと。インタビューを受けた監督さんらは割愛します。彼らが懇切丁寧に解きほぐしてくれたシーンの良さを聞いても、ヒッチコックという天才の何がわかったことにもならないでしょう▼「あなたの映画が面白いけど中身がないという批判がありますが」とトリュフォーが質問します。ヒッチ「観客は何を見せてくれるかと期待してくれている。裏切るわけにはいかない」。荒唐無稽な面白さだけで筋道が立たないという批判は、ヒッチコックについて回りました。でもそんなこというのは批評家だけで、私たちはヒッチコックの映画が公開されるたび、胸をわくわくさせて映画館に行った、筋道が立っていようといなかろうと、面白かったら充分でした。ヒッチの映画が編集の勉強になるとか、リズムを早めたり遅らせたり、思いのままに映画を操ることが監督の醍醐味だとか、トリュフォーも他の監督たちもいろいろ言っていますが、例えばヒッチのこういう一言。トリュフォーが自作の「大人は判ってくれない」の製作のプロセスの一部分をヒッチに説明している、とても苦労したらしい。ヒッチは「で、そこで息子と母親は目を合わせるのか」と質問した。一瞬合わせて母親が目を背け、逢い引きしている男と「見られたわ」と言葉をかわす。ヒッチが「セリフはなくてもよかったな」とつぶやく。ヒッチコックの怖さはこういうところじゃないかと思うのです。一瞬の隙を見逃さない。セリフを入れてもそれで映画がダメになるような作り方をトリュフォーはしていません。でもヒッチには「無駄」が見える▼見ようとしなくても見える、こんな目ほど怖いものはない。どの監督もみな一流ですが、彼らの指摘は「勉強になった」とか「ここが素晴らしい」とか、「繰り返し見た」とかばかりで、ちっとも「ヒッチコックの秘密」を教えてくれない。ヒッチコックの「眼」とはなんだろう。例えばこういうことを言っている。「私は告白する」で主演はモンゴメリー・クリフトだった。「クリフトとはもめたよ。視線の問題でね。私がホテルを見上げてくれといったら、見上げる理由がわからないというのだ。映画の観客にはわかるのだよ、と私はいったがね」。そして「人間の眼とは必ずしも心の表現ではない。見上げることで観客は自分の位置がわかるのだ」と。ヒッチにとって「眼は心の窓」というような抽象的な「眼」ではなく、観客誘導術としての「眼」なのだ。こんなことも言う「人物の中に入ろうとするのは、ボーイスカウトを引率する女教師みたいなものだ。俳優と揉めるばかりだよ」…これを聞くと「俳優とは家畜だ」といったヒッチの考え方がわかる▼「夢は見ますか」とトリュフォー。「あんまり、見ない」「あなたの映画で、夢は重要な要素なのでは?」「たぶん。白昼夢ならね」トリュフォーはもっとわかりやすい答えを引きずり出したかったのだろう。「あなたの映画には、夢のイメージが多いものですから」と食い下がる。ヒッチ「内なる私の悪夢かもしれない」…しびれましたね。ヒッチコックとは本質的に詩人だと思うのです。映画はサイレントが原型だと彼は考えていました。だからセリフなしに物語を語るようにしている、すべては光と影なのだと。こんなこと言われたら、かたなしになる映画のいかに多いことか。映画とは彼の白昼夢であり彼を食いつぶす内なる悪夢だった。映画とは彼の天使と堕天使の格闘だった。彼は一生をこの格闘に捧げました。彼自身の言葉を借りれば「たかが映画に」。

 

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