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特集「ヒッチコックが新しい」

2018年7月5日

特集「ヒッチコックが新しい」⑤
恐喝(ゆすり) (1929年 劇場未公開)

監督 アルフレッド・ヒッチコック

出演 アニー・オンドラ/ジョン・ロングデン/ドナルド・カルスロップ

シネマ365日 No.2531

カナリア 

ヒッチコックが新しい

ヒッチコック映画のすべてに通底する基本事項として、彼の関心は事件の謎解きや背後の究明には始めからない。犯人は簡単にわかるし、殺人の手法にしてもややこしいトリックもなければドンデン返しもない。ナイフでブスッと刺すなど至って単純だ。ヒッチが撮りたいのは因習からはみ出す女の性行動であり、脇道にそれた女をえぐることだ、と思えます。本作では、ヒロインのアリス(アニー・オンドラ)が、クルー(ジョン・ロングデン)という絵描きのアトリエに行き、レイプされそうになりナイフで刺殺します。アリスというのがかなり衝動的で、婚約者である刑事のフランク(ジョン・ロングデン)とデートの最中、映画に行く約束を気が変わった、やっぱり行く、また気が変わったとはぐらかしてばかりで、その理由が同じレストランに居合わせたクルーに気が向いたからと言う、人騒がせで軽薄極まりない▼絵描きの部屋に行きパレットの持ち方がどうの、こうのとつまらない話をし、自分も絵を描きたいからと服を着替える。クルーはピアノを弾き、「ハイカラお嬢さん」と歌を口ずさむ。すぐ隣でアリスが服を脱いでいても無関心だ。アリスにしても、夜遅く男の部屋に行くのは問題かもしれないが、律儀な両親の元で育ったネンネで、アバズレにはほど遠い。ところがヒッチは強引に男に態度を豹変させ、女をベッドに引きずり込み、女は必死に抵抗して男を殺す。さっきまでの平和な世界は一転、ヒッチコックの「闇」に変わる。部屋を去ろうとするアリスは、画家が最新作だと言った絵に目を留める。太った男か女か判別のつきにくい、いやらしい目つきの人物の奇妙な絵が、アリスを「お前が犯人だ」といっているみたいに指差している▼現場にあった手袋がきっかけで、アリスが犯人だと知ったフランクは、二人の会話を盗み聞きしていた男トレイシーの脅迫を受けるが、「前科者のいうことより刑事のいうことを警察は信用する」とフランクに逆襲され形勢逆転。アリスは自首しようとするが、事件はトレイシー犯人で落着、アリスの話を聞きかけた上司は「フランク、君に任せる」とどこかにいってしまった。本作はかなり陰鬱な映画で、後味の悪いことおびただしい。この陰鬱さこそヒッチが狙っていた空気だとは、人のいい観客(私のこと)は後で気がつく。ぞっとするものが撮りたい、が彼の口癖だった。本作にある「ぞっとするもの」は絵だろう。本作はイギリスで初めてのトーキー作品ということで、音を使える新技術にヒッチはいそいそと取り組み、カナリアの声や室外の音やら、セリフ以外の伝達機能として音をフル活用している。しかしながら彼が勝負するのはいつも視覚であり映像です。絵の薄気味悪さにアリスはナイフをキャンバスに突き立て裂こうとしますが、途中で止まる。ヒッチはこの絵を破らせません。ラストは警察の担当者が絵を片付けようと、かついでいく肩越しに絵がアリスを指差しているシーンです。知っているぞ、お前が犯人だ、わかっているな、絵はそう言っている。フランクとアリスは刑務所行きこそ免れましたが、女は一生殺人の罪に、男は不正義につきまとわれる。おまけにカナリア。ヒッチの映画で鳥が吉兆であることは絶対にない。不吉な前途を示すアイコンであり悪と不幸の使者であり、人間のダークサイドを暗示するために現れます。傑作「」は紛れもなく吉凶「ぞっとするもの」の結集でした。ペットショップのカゴの中にいるカナリアを映した段階で、ヒッチは主人公たちを心の暗部に引きずり込むことを予告します。ヒッチコック映画とは謎解きではなく、観客との心理戦です。その駆け引きのために縦横無尽なアイコンを駆使しました。混乱に落ち込むブロンドの美女、長いまっすぐな、あるいは螺旋の階段鋭い仰角、ロングショット…。本作ではカナリアです。