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2012年3月4日

私たちの3.11 ―豊中市社会福祉協議会が被災者の体験談まとめた冊子を販売(1)―

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豊中市社会福祉協議会

豊中市に避難した人たちの生の声。地震、津波、そして原発

 昨年11月、豊中市社会福祉協議会が、東日本大震災の被災地から豊中市に避難してきた人たちにインタビューをしてまとめた冊子『私たちの3.11 豊中に避難してきた人たちの東日本大震災』(800円)を発売した。同社会福祉協議会の常務理事で事務局長の前中史雄さんと、参事兼地域福祉課長であり、避難者の支援に当たってきた勝部麗子さんに話を聞いた。

 「豊中市は阪神・淡路大震災の際、大阪府下でもっとも被害が大きく、そのため、私たちは3回、地域コミュニティを喪失させられました。家を失い避難所に移るとき、避難所から仮設住宅に移るとき、仮設住宅から一般の住宅に移るとき。その度に人々のつながりがバラバラになっていく。人の絆を失いました」。3月14日には募金活動を開始し、19日には現地に職員を派遣するなど、被災地の支援にいち早く取り組む一方で、29日には市営住宅に避難してきた人たちへの支援を開始。自分たちの経験から「避難してきた人たちを孤立させてはいけないと、(豊中市に)避難されてきた方たちへの訪問を今でも欠かさず行っています」。

 土地勘のない、未知の土地へ避難してきた人たち。病院や福祉施設、日常生活に欠かせないスーパーの場所など、まったくわからない。中には、取る物もとりあえず避難したものの、自宅が原発の避難区域に指定され、そのまま帰れなくなった世帯もある。「避難されてきた当初、タオルやティッシュペーパー、お米などの支援物資を集めて持参し、病院やスーパーなどの地域の生活情報や福祉の窓口などをお伝えしました」。大阪府電気事業組合豊中支部から提供された照明器具や炊飯器も、避難者にとって心強かったようだ。
「現状でも15世帯の方々が豊中市で暮らしていらっしゃいます」。岩手や宮城の避難者の中には地元へ帰れた人もいるが、福島の人は帰る場所がないケースが多い。また、帰れたとしても、元の住まいは倒壊し、津波で流され、仮設住宅での生活を余儀なくされている。職場も残っているとは限らない。「実情、帰れても決してハッピーな状態ではありません。それに、被災地から避難したことで、地元の人たちから逃げ出したようにとられ、孤立感を感じていらっしゃる方もいらっしゃいます」。たとえ住んでいた県に帰れるようになったとしても、元々暮らしていた地域には戻りにくいといったケースすらあるようだ。

 冊子には、目の前で津波の脅威を見せつけられた仙台空港の職員や、津波で流されながらも助かった人の話も掲載されている。自身はなんとか助かったものの、目の前で流されていく人たちや、自宅の屋根などに避難して津波から逃れられても、夜間の寒さや飢え、睡魔に襲われ力尽き、濁流の中へ落ちていく人たちを目の当たりにし『地獄の中の地獄』と恐ろしさを語っている。

 ただ、冊子からは震災当日の壮絶さ、悲惨さだけではなく、震災後の辛さ、苦しさが伝わってくる。公立保育園の嘱託職員をしていた30代女性は、避難の際に義母と意見が合わず、結果的に別々な土地で生活することとなり『原発さえなければ(中略)子どもたちを小学校に送り出せてあげたのに…原発さえなければ、全国にバラバラにならずにすんだのに…原発さえなければ家族がバラバラにならずにすんだのに…(中略)原発さえなければ普通に生活できたのに…』と吐露している。また、職場を離れるわけにはいかない夫を残し、子どもとともに豊中へ避難してきた40代女性は『「行くところがある人はいいよね」みたいなことを言われましたね。地元の人にとっては「見捨てていった」という感覚があるのかもしれません』。また、その子どもたちも『遊びたい、帰りたい』『大人になったら震災、なおしたい。地震なおしたい。あとは、パパに会いたい。パパに会いたいなあ』と心情を語っている。

 「避難できた人たちでも、(家族を残してきたため)二重生活になっている方もいらっしゃいます。また、(避難先で)仕事もなく、知り合いもいないため、経済的にも精神的にも辛い状態です」。豊中市社会福祉協議会では、こうした避難者を支援するため、訪問以外にも多くの支援を行っている。

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