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シネマ365日

2012年4月12日

刑事 (1959年 刑事映画)

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監督 ピエトロ・ジェルミ
出演 ピエトロ・ジェルミ/クラウディア・カルディナーレ

受け継がれる 「刑事」の遺伝子 

 クリント・イーストウッドとトム・クルーズがピエトロ・ジェルミの遺伝子を引き継いでいる、といえば牽強付会にすぎるだろうか。クリントと同じ監督兼主演であればチャップリンもいた、オーソン・ウェルズもメルギブもいた、トムに劣らぬアクション俳優ならヴァンダムもいる、バート・レイノルズもチャールズ・ブロンソンもいた。しかし自分を常に最高にみせるセンス、つまりセルフ・プロデュースの男の極地という点で、クリントのダーティー・ハリーやトムのイーサン・ホークに匹敵する監督主演の源流は、やっぱりピエトロ・ジェルミではないかと思える▼ジェルミは下積みが長かった。新聞売り子やメッセンジャーボーイをしながら職を転々とし俳優を志した。監督として頭角を表したのは「越境者」(1951)37歳のときだ。40代に入って代表作になる「鉄道員」「わらの男」そして「刑事」と連発する。家族の、そして男女の虚像と実像、感情の隙間を情感豊かに抽出し、心機一転コメディに進出するや「蜜がいっぱい」でカンヌ国際映画祭大賞を取る▼映画人としてのスタートは遅かったうえに、60歳という、これからが円熟の極みというときに亡くなったから、作品は多くない。でもイタリアの三大監督(ミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ)もいいが、ピエトロ・ジェルミを忘れちゃいませんか、といいたくなる監督だ。「刑事」はなかでもジェルミの男ぶりが際立っている。ジェルミ扮するイングラバロ警部が物語の中心にいるというより、スクリーンを支配している存在であることがわかる。彼のいるあらゆるシーンが執拗でもなく、イヤミでもなく、誇張でもなく、こいつがいて当たり前だ、こいつがなにかをやってくれるのがこの映画なのだから。そう観客に思わせる「支配感」なのである▼クラウディア・カルディナーレが、逮捕された男の車を追って走りだすラストは、語りつくされたにちがいないが、やはりいい。映画づくりの見せ場、感情のクライマックスを知り尽くした監督術に心地よく圧倒される。筋書きはローマの下町で起こった殺人事件をめぐるドラマだ。庶民の貧しさ、明るさ、その日その日を暮らす町の住民の罪のない野次馬さわぎ、観光地ローマではない裸足のローマの裏町を、ジェルミはいとしげに映していく。イングラバロが逮捕した男も、それを追う女も、真面目で誠実で、おたがいを精一杯幸せにしようとしただけなのに、なぜこんなことになったのだろう。だれにも裁けない、生きる辛さを、観客はいつのまにか自分のシートに身を埋めてかみしめている▼夜のトレビの泉を背景に、アリダ・ケッリの歌う「死ぬほど愛して」が突如オープニングに流れる。彼女は作曲者カルロ・ルスティケリの娘だ。やるせなく哀調を帯びながらどこか激情を秘めた歌が暗い予感をかきたてる。この使い方を3年後ミケランジェロ・アントニオーニは「太陽はひとりぼっち」でみごとに再現する。ビートの効いたツイストでスクリーンから不意に叩き出されるフォルテシモのサウンドは、あとにもさきにもこの世にもう信じられるものなんかなくなったという絶望そのものだった▼ハワード・スーバーによる「名画の法則」の第一条件は記憶に残ることだった。であれば公開から53年後も感動を新たにさせ、セルフ・プロデュース、それもあざといばかりに計算しつくしたそれ、という映画のスタイルに先鞭をつけ、遺伝子をいまも伝え続けている「刑事」を、どういえばいいのだろう。

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