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映画監督特集

2012年7月5日

特集 ルキノ・ヴィスコンティ ベニスに死す (1971年 文芸映画)

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監督 ルキノ・ヴィスコンティ
出演 ダーク・ボガード/ビョルン・アンデルセン/シルヴァーナ・マンガーノ

浜辺の死 

 夜明けの海上におぼろげに船影が浮かぶ。夜の冥界から夜明けの海に姿を現した船のようなファーストシーンですね。近づくにつれて船腹の名が読める。名はエスメラルダ。スペイン語でエメラルド、であると同時に歌劇のヒロインでもあります。なにしろヴィスコンティ家はスカラ座の大スポンサーです。ルキノは子供のころからオペラが大好きだったし、その素養は生半可なものではありませんでした。いうまでもありませんがエスメラルダとは悲劇のヒロインです。劇中娼婦の名前で登場します。エスメラルダと名付けた船に主人公を乗せ登場させる、そもそもこのあたりからドラマツルギーとしてのヴィスコンティ・テクはノリノリです▼作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)はなんでそこまで美少年タジオ(ビヨン・アンデルセン)にのめりこむ…そんなこと本人だってわからないだろ。タジオを好きというよりなんだろ、これは。アッシェンバッハは映画の後半ふらふらになってベニスの街、それも街角に行き倒れの死人がいるコレラの街をさまよいながらタジオのあとをつける。今ならストーカーよ。タジオってせいぜい中学生くらいですよ。母親がシルヴァーナ・マンガーノ。ヴィスコンティお気に入りの女優さんの一人です。衝撃的なセックス・アピールでデビューした彼女の転機は「華やかな魔女たち」(オムニバス)のうちの一作「疲れきった魔女」をヴィスコンティ監督で撮り、以後「ベニスに死す」「ルードヴィッヒ」「家族の肖像」と出演します。頭がよくて美しくてしっかりした、ヴィスコンティの好きな女性のタイプですね▼アッシェンバッハはタジオにアタックするわけでもない、愛を告白するわけでもない。いくら美少年だといっても中学生くらいの男の子にいい年のオッサンが…とくにヴィスコンティは道徳その他規律を重んじる人でしたから、そんなバカな、バカな…だからこの劇はすべてエッシェンバッハという音楽家の、原作者トーマス・マンという作家の、映画監督ルキノ・ヴィスコンティという芸術家の想念の劇なのです。アッシェンバッハはタジオとベッドにはいりたいわけでもない、いっしょに暮らしたいわけでもない、憧憬が現実となれば消滅か幻滅しかない。それくらいわかっているがどうにもこうにも抗しがたい、それがこのときのアッシェンバッハのタジオでしょうか▼アッシェンバッハは一粒種の娘を亡くし、新曲発表はブーイングの嵐だった。アルフレッドという友人は「完全なバランスを達成したい、芸術は健全でありたい」が創作の基軸であるアッシェンバッハに対し「君は老人だ。老人ほど不純なものはない。君の芸術の根底は平凡さだ」とクソミソにメッタ打ち。アッシェンバッハは心臓発作を起こし医師から静養をすすめられてベニスにきた、つまりヨレヨレの精神状態でタジオに会った。よくあるでしょ。実社会の現実に疲れた人が古寺巡礼で仏像の美しさに打たれ、精神の落ち着きを取り戻すという▼でもヴィスコンティにあっては「精神の落ち着き」とかバランスはとんでもない。なぜか。彼は破壊とか、破滅とか、滅びるとか、退廃とか、はかなさとか、いまがどんなに絢爛豪華で幸福であっても、人間がいずれたどりつく「無」というテーマにとりつかれた人です。人はいつか死ぬ。年をとれば衰える。美しいものは老残となる。無に至るプロセスをぎりぎりまで、描けないというところまで描く。ヴィスコンティの映画は豊饒な精密画みたいに密度を高めていく。アッシェンバッハが死ななければヴィスコンティの劇は完成しない。劇中すべての人物がアッシェンバッハの崩壊を意思しています。とりすましたホテルの支配人、荷物の配達先をまちがえる配達人。行く先を教えないゴンドラの船頭、論争でわざわざアッシェンバッハの年齢にふれるいじわるな友人、タジオもぜんぜん少年らしくありません。アッシェンバッハがのぼせていることを察知すると娼婦のような目付きをします。どのシーンもペシミズムに満ちています▼冥界から航行してきたエスメラルダは、アッシェンバッハの死をのせてもとの冥界に帰るわけです。「ベニスに死す」というヴィスコンティの一連の死の儀式はつぎのようなラストシーンで終わりを告げます。観光客は避難しホテルは閑散となり、浜辺にはチェックアウトまでのひとときをすごすタジオとそのともだちがふざけている。彼らだけだ。浜辺は能舞台のように無人であり、海という壮大な虚無を前にした…そこは海と空と浜辺と広い空間であるにもかかわらず、息が苦しくなるような死の予感が充満しています。

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