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シネマ365日

2012年7月30日

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 (2012年 伝記映画)

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監督 フィリダ・ロイド
出演 メリル・ストリープ/ジム・ブロードベント

残念な映画

 サッチャーを演じたメリル・ストリープに敬意を。それ以外は食い足りない映画になってしまったのが残念だ。監督のフィリダ・ロイドと脚本のアビ・モーガンはどちらも女性、もうひとり女性を加えるとすれば、サッチャーが現在認知症でいることは娘のキャロルの出版によるものだ。監督と脚本は、英国初の女性首相も認知症には勝てないことをいいたかったのか、それとも実の娘は偉大な母の真実を冷厳に受け止めようというメッセージを発信したかったのか、いずれにしても認知症の部分が半分以上を占め、映画の主題がどこにあるかが弱くなった▼サッチャーがユーロにイマイチ賛同できず、ポンドの独自性を保ちたかったこと、経済再生の大ナタをふるったあとの強攻策、というより保守党内部での孤立によって退任したという見方を映画はとっている。サッチャーの歴史的な評価はまだ定まっていないとはいえ、現状のユーロ経済圏はドイツ(女性首相メルケル)のひとり勝ち。サッチャリズムを見なおそうという再評価が生じているのは確かだ。劇中「あなたの政策は庶民感覚からかけ離れている」と批判され、バターの値段をきくと男性閣僚は答えられない。サッチャーが回答すると「食料品屋の娘だからな」と差別発言を吐く。食料品屋に生まれながらオックスフォードに学ぶという、知力と努力と国民目線の生活感覚が、瀕死の英国経済を立て直し、フォークランド紛争で国の威信と外交の信義を示し、国民に勇気と信頼を取り戻させたのではなかったか。ぐずぐずしていればイギリスは早晩ギリシャみたいになっていたのだ▼10年という長期政権であったにもかかわらず、この映画ではサッチャーの仕事の実績は点描されているにすぎない。女を候補にたてて党首選を闘うのは、目先を変えようという党利戦略だったが、乗りかかった船から絶対に降りないサッチャーは、最大のチャンスととらえたはずだ。政治家としての運命の分かれ目なのに映画では妙に無欲になっている。ひとつ冴えていたのはフォークランド紛争のシーンだ。おためごかしの優柔策をすすめるアメリカに「ハワイという小さな島が攻撃されたときアメリカは東條と握手したか。同じ条件下でなぜイギリスがたたかってはいけないのか」と一蹴する。攻撃か撤退か、首相の決断が問われ全閣僚が沈黙して答えをまつとき、サッチャーは海図をみつめ一言「沈めて」と発する。最上の策は戦争をしないことだ、しかし起こった以上すばやく叩くだけ叩いてアドバンテージを取り、終結に持ち込んで絶対長引かせてはいけないと書いたのは孫子だった▼いよいよ党首選に打ってでるとき、勉強ばかりしていたサッチャーはファッションにうとい。トップレディとしての特訓がおもしろかった。数少ないサッチャーの味方の議員が参謀になり「その甲高い声をなんとかしろよ、もっとゆっくりしゃべれ」「ヘアスタイルを変えよう」政策のレクチャーよりこっちのほうがたいへんみたいなのだ。甲斐あって勝利を納めたサッチャーは、冷静沈着を強調するきれいな青いスーツで「英国の力」を演説する。また「いまこのときだけは敵味方を忘れよう、私への批判もやめていただきたい、政策論争は関係ない」サッチャーが問題解決のために一致団結をよびかけるところがある。日本の政治家はなぜこういう力強く、信念と哲学のある演説ができないのだろうとつくづく思った。心がいかに練れているか、人の痛みをいかに感じ取れるか、いかに早く解決策を示すことができるか、これらを総合する人間の器量とはどこから生じるのだろう▼映画では時間軸が頻繁に移動するので脈絡がつけにくいが、認知症になったサッチャーが亡くなった夫デニス(ジム・ブロードベント)の幻影に始終話しかける形で進む。遺品整理だとか、若い時の写真、首相就任時の記念写真、それらは今や残骸か。息子は母親に会いにくる予定をいつもドタキャン。母親を故意に避けていると映画はほのめかす。母親がでかける車のあとを、幼い双子の子供が追いかけるシーンがある。みていて胸がふさがった。しかしである。あのときの母の一挙手一投足に国と国民の未来がかかっていたという立場が、成人してもなお、子供たちにとっては理解の埒外でしかなかったのだろうか▼とぼとぼと腰を曲げて歩くストリープを、キャメラがこれでもかと追いかけるのには食傷した。とどめはこのシーンである「お茶碗を洗うだけの人生は送らないわ」若き日のサッチャーがデニスのプロポーズを受けたときにそう言う「そんな君を愛している」とデニスが受ける。とはいうものの、ちょっとしたいさかい(少しは家庭をみろというセリフ)もあるにはあったが、デニスは理想の夫だった。サッチャーは彼に守られ重責を果たせた。そのデニスが亡くなりひとりサッチャーは、紅茶茶碗をさげ流しで洗う。結局は「茶碗を洗う人生」に落ち着いたのだといわんばかりのシーンを、チマチマとってつけた脚本と監督の真意はなんだろう。なんでもかんでも一般人のレベルを当てはめることがサッチャーという女性のスケールの大きさを、真に理解することになるのか。どんな偉大な人物も免れ得ない冷酷な運命がある。しかしサッチャーが苛烈な責任をになって決然と国難にたちむかった人物であることと、冷酷な運命にみまわれたことは別の問題だろう。

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