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特集「ディーバ(大女優)」

2012年9月3日

特集 ディーバ(大女優) オードリー・ヘプバーン 
パリの恋人(1957年 ミュージカル映画)

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監督 スタンリー・ドーネン

出演 オードリー・ヘプバーン/フレッド・アステア

ダンス大好きトリオ

オードリーは自作のなかで「パリの恋人」が気にいっていた。他愛もないミュージカルもの、と言ってしまえばそれまでの映画に、なんでそう思い入れがあったのか。たぶんあこがれのフレッド・アステア相手に、思う存分ダンスが踊れたからだろう。オードリーが目指していたのはバレリーナ、それもプリマだった。一心不乱にレッスンに打ち込んでいたのに、背が高くなりすぎて相手役がいなくなり、セカンド・バレリーナなら大成すると言われガックリ。バレエはダメでも自分が最高になれるものがあるはずだと、生本来努力家のオードリーはモデルやらダンサーやらをやって一家の生活を支える。ロンドンのキャバレーで踊っていたのは20歳のころだ。オードリーのサクセスは確かに彼女の才能もあったろうが社会人としての良識も、人を人と思わない芸能人もいるなかで、彼女を護った才能のひとつだった。満足に食べられなかった少女時代の飢えと困窮の暮らし。生涯それを忘れなかったオードリーは、無我夢中で働き、優れた監督や脚本家と出会い成功したが、人の好意にあぐらをかかず、目をかけてもらうだけでもありがたいことなのだと感謝した。セットには絶対遅刻せず時間厳守、セリフは完璧に覚えスタッフへの礼儀と尊敬を忘れなかった▼フレッド・アステアといえば当時オードリーでなくても多くのファンの「あこがれの人」だった。1930年から1950年のアステアはハリウッドのミュージカル映画の全盛時代をつくった。映画会社RKOが経営を立て直したのはアステアとジンジャー・ロジャースが組んだダンス・コメディによる。映画史に「アステアとジンジャーもの」というジャンルさえつくった不世出の大スターである。不況下のアメリカでアステアのダンスは、大衆に夢と希望を与え勇気を鼓舞した。アステアが、生活のため悪戦苦闘していた無名のオードリーのヒーローだったとしても不思議ではない▼「パリの恋人」が企画されたとき、オードリーは「ローマの休日」「戦争と平和」「麗しのサブリナ」と立て続けに主演し、舞台の「オンディーヌ」でトニー賞受賞と、もはや押しも押されぬトップスターだった。オードリーが出した条件がアステアとの共演だった。劇中オードリーが踊るダンスシーンがかなり長くある。もちろん自分で踊っている。アステアは「彼女はそれまで抑えていたダンスの夢が開放され、つむじ風のように踊った」と言っているが誇張ではないと思う。オードリーの体格は170センチ、58キロ。見た目より体重があり「母は着ぼそりするタイプで、脚や腕はアスリートなみの筋肉がついていた」と息子ショーンが言う。本作では黒いタイツ姿で踊るのだが、長い腕や脚にはしっかり筋肉がつき、基礎から鍛えたレッスンを思わせた。アステアのワンマンショーもさることながら、オードリーとふたりで踊るシーンもけっこう素晴らしい。監督はスタンリー・ドーネン。いうまでもないが28歳で監督した「雨に唄えば」でミュージカルの金字塔をうちたてた。オードリーとは「パリの恋人」以後「シャレード」「いつも二人で」と相性のいい仕事をしている。そもそもドーネンはダンスの名手で、アカデミー名誉賞受賞のとき授賞式でみごとなタップを披露した。「パリの恋人」でも演技指導かなにかだろう、オードリーと気持ちよさそうに踊るスナップが残っている▼本屋で働くジョー(A・ヘプバーン)はひょんなきっかけからファッション雑誌のモデルになる。撮影はパリ。彼女は共感主義の哲学に夢中で、パリにいったら共感主義の元祖フロストル教授に会えると、モデルを引き受けカメラマンのディック(フレッド・アステア)とともに旅立つ。ディックはジョーが好きだが、共感主義の哲理をふりまわすジョーはそれに気がつかない。撮影がすすむうち、ジョーはフロストル教授と会うチャンスが訪れ、フロストル教授は哲学はそっちのけで別の事を教授しそう(モデルはサルトルだと言われる)。あいつはただの男だとこきおろすディックにジョーは腹をたて、パリの街をあっちへいったり、こっちへいったりの追いかけあいを展開する。このとき28歳のヘプバーンが20歳くらいにしかみえない。若くみえるというより、スタンリー・ドーネン、フレッド・アステアそしてヘプバーンと「ダンス大好きトリオ」の息があって、しかもロケ地はパリ。楽しくて楽しくてたまらない、という弾みがこの映画を若々しくしている。

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