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特集「ディーバ(大女優)」

2012年9月7日

特集 ディーバ(大女優) オードリー・ヘプバーン 
噂の二人(1961年 社会派映画)

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監督 ウィリアム・ワイラー

出演 オードリー・ヘプバーン/シャーリー・マクレーン

告発は止んでいない

半世紀以上前に製作されたこの映画のヒロイン、とくに自殺するマーサ(シャーリー・マクレーン)を、なにも死ななくてもよかったのにとか、そこまで深刻に考えることはなかったのにとかいうのは、あくまで後出しジャンケンだろう。じつはウィリアム・ワイラーはこの原作、リリアン・ヘルマンの「子供の時間」を1936年「この三人」として映画化しているから、自作の再映画化である。「この三人」は当時同性愛などもってのほかとした映画会社の方針によって、友人の婚約者をめぐる女友達の嫉妬というありふれた三角関係に置き換えられ、しかもハリウッド的ハッピーエンドだった。それが不服だったワイラーは、本作に先立つ2年前の「ベン・ハー」の、史上最多のアカデミー賞獲得と興行収益の大ヒットという、有無をいわさぬ成功のもとに再映画化を了承させたのだから、彼の執念深さというか、粘り強さも相当なものだ▼アメリカ映画協会の前身ヘイズ・コード(映画の検閲権機関)は、性や犯罪の描写に関する細かい規則を設け、映画の健全なイメージを維持することを目的とした。オバマ大統領が同性婚を認める方針を表明する今から思えば、マイノリティへの迫害としかいいようがない規制も、大真面目になされたのである。「噂の二人」が公開されたときはまだまだタブーは強かった。同性愛への理解は発展途上であり、26年後の再チャレンジを期したワイラーも本作での扱いがせいいっぱいだった。それでもヒロインのひとりカレンを演じたオードリー・ヘプバーンやシャーリーは、描き方が物足りないのではないかと不満をもらしていたが、のちシャーリーは「セルロイド・クローゼット」(1995年製作。LGBT=性的少数者は映画史のなかでどう描かれてきたか、のドキュメント)のインタビューで「マーサは自分のために戦わねばならなかった。でもあのときは自分もオードリーも突っ込んで話し合っていなかった」と振り返っている。この映画が本来備えている問題点は、リリアン・ヘルマンが書きたかったのは「自由の敵」への告発なのだ。性的選択の自由がなぜイチャモンつけられねばならないのか。人を殺したわけでも泥棒したわけでもない、単に好みの問題がなぜ誰かに、あるいは何かの機関に罰する権利にすり替えられねばならないのか。ごらん、かわいそうにマーサは首を吊ってしまった。カレンは深く傷ついた。幸福に健康に、堂々と生きる権利を意味なく奪い、彼女らを抹殺した愚かさはだれの罪か▼それにしても「探偵物語」でもそうだったが、舞台劇を映画化するワイラーのみごとさはどうだろう。私立寄宿舎学校を経営するマーサとカレンは17歳のときからの親友だ。同じ大学を出て女子教育に携わった。学校の規模は小さいが順調に生徒を獲得し「これでまた生徒がふえるわ。今月は90ドルも残っているわ」とヘプバーン。「服を買いなさいよ、あなたはおしゃれだから。わたしはこれでいいわ」とシャーリー(これ、ベストドレッサーのヘプバーンに対する劇中賛辞か)。「子供たちの就寝の見回りに行ってくるわ」「もどってきたら散歩にしましょ」とじつに仲がいい。気持ちよく映画をスタートさせておいて、さてワイラーが登場させる性悪のガキ、これがもう胸がむかつく邪悪の結晶なのだ。生徒らはみな上流家庭の富豪の娘ばかりで甘やかされ放題。カレンもマーサもびしびし罰を与える根性のある教師だが、メアリーという娘が、休暇明け学校に帰りたくないためにウソをつく。これが噂の発端だ。「バカなことおっしゃい」で叱り飛ばすのが普通なのに、メアリーのおばあちゃんはそれを孫娘の一大事と受け止め、同じ学校に娘を通わせる家庭に告げて回る。このあたりの不運な成り行きをピシピシと抑えていくワイラー監督の手際に、観客は一瞬も目が放せない。白黒のスクリーンがまるでサスペンス映画のような迫力でクライマックスに突入する。マーサの死を予感したカレンの、ヘプバーンの全力疾走が素晴らしい。階段を長い脚ですっとばし「マーサ、マーサ」叫びながら部屋に駆け上る。かなりの運動神経ですよ。シャーリー・マクレーンが27歳、ヘプバーンが32歳のとき。いま見てもマーサとカレンの悲劇は告発をやめていません。

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