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映画監督特集

2012年9月13日

特集 シャブロル「静謐な狂気」 二重の鍵 (1959年 サスペンス映画)

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監督 ジョン・ヒューストン
出演 ベティ・デイビス/オリヴィア・デ・ハビランド

完全なものなんかない

 愚かな人間像のオンパレードともいうべき、嘲笑と悪意にみち、なのに腹のたたない映画だ。シャブロルが「二重の鍵」を撮ったのは29歳で「美しきセルジュ」「いとこ同志」に続く三作目だった。彼の映画の基本路線は、逸脱した愚かな人間(とくにブルジョア階級をめぐる)を、徹底的にいたぶることで終始一貫している▼プロバンスの郊外の邸宅。日曜の朝、窓からスリップ一枚で身を乗り出し、しどけないポーズで若い女中が庭番と牛乳配達の気をそそっている。のっけからこうだ。嘲笑と悪意と書いたが「嘲笑と悪ふざけ」とでもいえるところに、やはり29歳という監督の年齢を感じる。女中の家の主人アンリ(ジャック・ダクミーヌ)は愛人レダを隣の家に住まわせている。日本にいた外交官の娘で知的で教養があり、美しい(とアンリは思っている)。それと反比例して、アンリが老妻のテレーズを憎む憎み方が常軌を逸しているのだ。彼はテレーズの顔を鏡におしつけ「みろ、自分の顔を。下劣、醜悪、できそこない、けだもの、老いぼれ、卑怯者、怪物」と毒々しく罵倒する▼これが長年連れ添った妻に吐く言辞か、常識を疑うだろう。しかも家屋敷すべて財産は妻のものであるがゆえに、夫は体ひとつで離婚する勇気もない。言わせておく妻も妻だが。娘エリザベス(ジャンヌ・ヴァレリー)の婚約者のハンガリー人のラズロ(ジャン・ポール・ベルモンド)が、下卑た男の最たるもので、日曜の朝も車で乗り付け我が物顔に家政婦に命じ、中庭でクチャクチャ舌を鳴らしながら口いっぱいにしてパンを食べ、ゆでたまごをすくってはスプーンをねぶり、鶏肉をむしってガツガツ歯を噛みあわせ、昼からワインをガブ飲み。風呂を使えば全裸で部屋を歩きエリザベスを押し倒す男。エリザベスはなにがよくてこんな男が好きなのかテレーズにはわからない。わからないようにできている映画なのだ。それにラズロが夫にレダを紹介したことをテレーズは根にもっている▼息子リシャール(アンドレ・ジョスラン)は性的不能者で母親を異常に愛している。醜男で音楽に取り憑かれ「僕の愛している母は、美しくもなく、やさしくもなく、なんでもなくなっていき、あなたは母とぼくを虫ケラにした」と、言いがかりとしか思えない言葉をレダに投げつける。母親に与するのが息子。父親に与するのが娘とラズロという二派に別れるみたいだが、それもたいした意味はない。だれとだれが理解しあうとか共感するとかは問題の埒外だ。よるとさわると夫と妻、妻と娘(テレーズはエリザベスとラズロを別れさせたい)、バカにしあう兄と妹、いくじのない寄生虫みたいな夫は妻をののしるだけが生きがい。よくこれだけサイテー人間が集まったと思わせる▼レダが殺される。警察がきて型通り尋問するが、監督の意図は犯人探しにあるのではないから、あくまで本筋は心理劇だ。アンリが家を出るとかでないとか、ラズロが友人を家に連れ込んでテレーズを怒らせるとか、殺人事件が起こったものの手掛かりはさっぱりなく、牛乳配達人が容疑者としてつかまったが、ラズロの友人は「彼は犯人じゃない」と断言する。そんな日曜の朝から夕方までの一日の出来事が映画の中身になっている。シャブロルはかねがね「ブルジョワとはウソと美食と、姦通と殺人にしか生きがいを見出さない」と考えていた▼まったくその通りの映画にしたわけだ。シャブロルは人間とは愚劣なものだ、人生も人間も不完全なものだ、それが許されるからわたしたちは生きていけるのであり、生きがいとかそれにともなう喜怒哀楽があるのだ、そんな切り口から映画にアプローチした監督だ。光あふれる美しい手入れのゆきとどいた庭園も、健康で若いはちきれそうな娘も、不自由なく食べていける境遇も、人生不完全主義の彼の信念の前では、いつ逆転するかわからない。そんな暗示をはらんでいる。シャブロルにかかったらどんな幸福な風景も不幸で愚劣な色合いに落とし込まれる。辟易することもあるが、しかしこの毒がじつは人生の実相を照射する。毒もまた人間がつくりだした必需品なのだと気づくには、たぶんさんざん毒を食らい、皿を前にしてついでにこれも食らってやるか、そんな目にあった人が思い当たることだろう。

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