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映画監督特集

2012年9月14日

特集 シャブロル「静謐な狂気」 女鹿 (1968年 恋愛映画)

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監督 シャリ・スプリンガー・パーマン&ロバート・プルチーニ
出演 スカーレット・ヨハンソン/ローラ・リニー/クリス・エバンス

シャブロルの愛

 シャブロル映画に恋愛がなりたつのかと疑いつつ恋愛映画としました。他にこれといって思い当たりません。不毛でも恋愛は恋愛ですからね。父親の財産を受け継ぎ、気儘な一人暮らしのフレデリック(ステファヌ・オードラン)が、パリの街角で路上に鹿の絵を描いているホワイに、500フランの札を投げる。そこからお話は始まりますが、そのちょっと前に、霧がかかったようなセーヌ川が映る。マルケの絵のような静けさのあるスクリーンはぼんやり灰色に曇っています。橋も川もかすんで見えない。冒頭このような曖昧なものを出してくるのがそもそもシャブロルの誠実さなのか、正直さなのか、はたまた人の悪さなのか、満ち溢れる陽光とか名だたる栄光とかを撮るつもりはないという宣言なのか、ま、どのみちこの映画は幸福には終わらないでしょう、と早くも思わせてくれます▼フレデリックとホワイという本作のヒロインである、若い女二人にひとつもその年齢なりの華やぎがありません。初々しさは薬にしたくてもありません。金持ちタカビー女と貧乏タカビー女がどっちもエラソーにふてくされあいながら、お互いの体に手を回してじっと見つめあい、つぎはなにをするのだと観客は固唾をのんだところでシーンは一転、南仏のフレデリックの家に車を走らせ二人は同居に至る。フレデリックの取り巻きの、正体不明の居候のような男が二人ごろごろしてはしゃぎまわっている。この映画はどうも社会の階段を踏み外している人物ばかりで成り立つようです。フレデリックの家では夜毎ポーカーをしたりパーティーを開いたり、無意味なことに時間を浪費している。およそ生産性がない。このあたり「太陽がいっぱい」の金持ち坊ちゃんとトム・リプレイの関係を思い出します▼ポーカーに来た建築家ポール(ジャン・ルイ・トランティニャン)がホワイに近づく。ホワイは、愛とかどうこうとかなんでもいいのだけど、処女というのも持ち重りがするから、という具合で一夜をともにする。するといままでホワイを召使みたいに扱っていたフレデリックが「幸せを祈るわ」といった舌のネも乾かないうちにポールに接近し、横取りしてしまう。しかしどっちもホワイをあきらめるふうでもない。奇妙な三人暮らしがしばらく続く。ホワイはフレデリックとポールにさからわず笑顔で従順に尽くす。自分がこの家にいてもいいかとフレデリックに聞くと、もちろんよとやさしいお言葉。ホワイはほかにいくところがないから…でもないようだ。このときは離婚していたが、かつて奥さんの祖母の莫大な遺産で映画をつくっていたシャブロルは、そんな下世話なことは考えないのだ。ホワイはだんだん不気味な女になっていく▼フレデリックとポールはパリに行く。あとを追うようにホワイも出発する。もうここにはもどらないつもりで荷物をまとめた。で、行先はフレデリックのいるホテルである。ということは…ここで行われる殺人はホワイのフレデリックに対する憎悪でしょうか。シャブロルのブルジョアに対する嫌悪でしょうか。いきなりプツンと断ち切られる映画はシャブロルの特色ですが、こういう描き方でないとわたしたちの、社会とか現実とかの実相を捕らえる方法はないと、シャブロルは考えているようです。愛はたしかに現実のヒダのなかに隠れているが、それがどんな愛かを現すには、必ずしも物語という形をとる必要はないと▼こういうシャブロルの方法論は、彼の映画の閉塞感と無縁ではないと思えます。本作でも舞台は南仏、フレデリックの屋敷の中、登場人物は限られ、ポールという男性の存在感は薄い。劇の大部分は女二人の愛情と憎悪の受け渡しであり、ポールはその中間にあって刺激剤の役を果たしているにすぎない。非常に狭いところで彼の映画は展開する。大スペクタクルもない、世界をまたにかけたロケもCGにも興味はない。愛とはかように狭く濃いものだ。シャブロルが好んでとりあげるテーマはミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不毛」とはちょっとちがいます。不毛ではない、ただ余りにも完全でないものがわたしたちの生きている実相であり、それこそが映画にするに足るテーマなのだと言わんばかりです。

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