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映画監督特集

2012年9月22日

特集 シャブロル「静謐な狂気」 
石の微笑(2004年 サスペンス恋愛映画)

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監督 クロード・シャブロル

出演 ブノワ・マジメル/ローラ・スメット

不完全さの醍醐味

これはシャブロル74歳のときの映画だから、彼の晩年にあたります。彼の70代というのは…説明ぬきに作品をあげると「甘い罠」(2000)「悪の華」(2003)「引き裂かれた女」(2007)未公開に「権力への陶酔」(2006)もある。充実の作品群だと思います。シャブロルは「最後の賭け」の後、こんなふうに考えていた「次作はもっとよくなるよ。大切なことは困難を逆手にとってそこから有利なものを作り出すことだ。ヒッチコックの親父さんの言葉がすべての秘訣になっている。〈わたしは不完全さの醍醐味を確立しようと心がけている〉完璧でないことを完璧に作り上げる、それが素晴らしいのだ」(フランソワ・グリフ「クロード・シャブロルとの対話 不完全さの醍醐味」大久保清朗訳)▼いうなれば70歳からのシャブロルの映画は、不完全な人間に寄せる不完全な詩」をシャブロル流に「完璧に作り上げ」ようとした映画に思える。どれをとってももの静かなシャブロルの映画がどうしてこう刺激的なのか、長いことわからなかったけれど、ただなんとなく見続けてきた。いやな性格の悪趣味なやつで、人生への悪意と冷笑のあふれたひねくれたやつ。いくらそう思っていてもついシャブロルを選んでしまうのは、多分「不完全さの醍醐味」という言葉にであう準備だったのだ。そして「困難を逆手にとって有利なものをつくる」シャブロル・スピリッツに「そんなふうにもっと早く言えばいいだろ」と思わず笑ってしまうためだったのだ。「石の微笑」はわかりやすい。思えば狂気とは、たとえそのプロセスは千差万別であっても、いったん人の心が陥った結果としては、もっともわかりやすい人間の形・在り様だったのではなかったか。狂気とは「たとえばこんなものだよ」とシャブロルは丸太のように転がした、そんな映画に思える▼原作者のルース・レンデルとシャブロルは同い年で、レンデル女史は現在82歳で健在だ。シャブロルが女史の小説から映画化したのは「ロウフィールド館の惨劇」に続く二作目。前作のイザベル・ユペールとサンドリーヌ・ボネールの女二人組の、空前の空恐ろしさからいえば「石の微笑」のヒロイン、センタ(ローラ・スメット)はまだまだ人間臭いのよね。そのパートナーとなって狂気の世界に引き込まれるフィリップ(ブノワ・マジメル)となると、目下フランス映画の貴公子・マジメルが清々しい青年を好演しているだけに気の毒としかいいようがない。でもちょっと待て「お前な、フィリップ君。あそこまでいってしまうにはなんとかなっただろ。要はキミがちょっと、残念な人だったのだなー」などと一言突っ込める人間らしい隙があるのだ。「ロウフィールド」の女二人がなだれこんだ、ああいう怒涛のごとき狂気には口をはさむヒマもなかったですが、それはそれ。じっくりした語り口だけによけい、恐怖はいやらしくにじりよってきます。そのへんのジワッとした感触がシャブロは楽しそうです▼フィリップは25歳。妹の結婚式で美しく謎めいた女性センタと出会う。彼女に惹かれたのは彼女がフィリップの亡くなった父がつくった石像「フローラ」に似ていたからだ。フィリップはフローラを抱いてベッドに入り、フローラに悩みを話しかける、内向的な青年だ。母と妹が留守中、家にやってきたセンタはフィリップが「運命の人」だと告白する。フィリップはたちまち情熱的な恋におちいる。女に免疫がないとこうなるのね。社長が次期後継者にと目するほど見込まれていたフィリップは、仕事もそっちのけでセンタの家に入り浸り。広い家なのにセンタは地下室に住んでいるのが奇妙だ▼家の中を案内してもらったフィリップは三階のセンタの部屋で「ネズミでも死んでいるのかい」というヘンな臭いを指摘するがそのときはそのままにした。そのうちセンタが妙なことを言う。お互いの愛の証を確かめ合おうだって。確かめ合う条件が「詩を書く。木を植える。同性とセックスする。人を殺す」冗談じゃないでしょ。それなのにフィリップは「よせよ、そんなこと考えるの」とか相手になっているうちにますますセンタのテンションはあがる。仕方なくフィリップは新聞の社会面にのっていた、身元不明のホームレスが殺害されたという記事を読み「あれは僕が殺したのだ」とやりもしない殺人を犯したという。おまけに三階の異臭はネズミの死骸どころではないことが判明したのに、センタはフィリップを抱きしめ「愛しているわ」するとなんとフィリップも「愛している、永遠に愛している」などと答えるではないか。蜘蛛の巣にかかった獲物が自分であることがまだわからない。殺人狂にからみつかれているところで映画はエンドである。まったく不完全の醍醐味を絵に描いたようですが、さすがというかなんというか、人生の毒と悲哀がイヤというほどたちこめています。どことなく物哀しくなってしまったな。

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