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シネマ365日

2012年11月14日

特集 「ブラックな笑い」博士の異常な愛情(1964年 ブラック・コメディ映画)

監督 スタンリー・キューブリック

出演 ピーター・セラーズ/ジョージ・C・スコット

キューブリックの異常な愛情

もともと「博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という長い題だ。これだけでスタンリー・キューブリックがいかに偏屈な監督か想像がつく。彼の映画をはじめてみたのは「現金に体を張れ」だった。キューブリックは28歳の若さだった。続く「突撃」も好評だった。それなのにカーク・ダグラスに抜擢され代打監督で撮った「スパルタカス」が、思うように作品管理できなかったことから、映画が好評だったにもかかわらず、自分の作品ではないと言った。カーク・ダグラスは面白くなかったのだろう「キューブリックは才能のあるクソ野郎だ」と言った。才能は認めるが偏屈なやつ、というのは一生彼につきまとった▼これはクロード・シャブロルが紹介したフランソワ・トリュフォーの言葉だ。トリュフォーは「テクニックの話をしない限り批評家は信じられる。テクニックの話をしだすとわけがわからなくなる」言い得ていると思うのだ。映画館で映画をみる観客に向かって、テクニックのうんちくを垂れてどうするのだろう。撮影技術というのは非常に魅力があり、おしゃべりをしないではすまない秘密にあふれている。CGや3Dの高技術がスクリーンを席巻しだすと、よけいそうだ。でもそれを批評に持ち込むのはフェアじゃない、とトリュフォーは言うのだ。技術は映画を成り立たせる材料であるが、映画の目的ではないだろう▼そうだ、そうだと賛辞を呈していたものの、これがキューブリックの場合になるとはたと困ってしまう。筋書きとかキャスティングとか、脚本とか、そういうもの以外に演出というか、いや撮影の、というか、そのテクニックがかなりの比重を占め、それを説明することがイコール、キューブリックの映画作りの解釈に通じるという作品が少なくない。「時計仕掛けのオレンジ」や「2001年宇宙の旅」など最たるものだろうが「博士の異常な愛情」にしても、キューブリック最後のモノクロ映画は、白と黒の不気味なグロテスクな画面を構成する▼登場人物は誰も彼も、ろくな人物がいない。ヒトラー崇拝のイカレタ科学者(ピーター・セラーズ)はそもそも名前がドクター・ストレンジラブ(異常な愛)。水爆が投下され世界破滅の核戦争が勃発しようという危機に、薄ら笑いを浮かべ、非人道的な持論を展開する。非人道的といえば「2000万人死ぬことによって数億人が助かる」といいだすタージジドソン将軍(ジョージ・C・スコット)は、ガムを噛み続け重要会議の席上愛人の電話をとりつがせて早く帰るという男。アメリカ大統領(ピーター・セラーズ)はホット・ラインでソ連大統領と危機打開策を講じようとするが、ソ連は「こういうこともあろうかと、我が国は〈皆殺しシフト〉をひいてある」としゃあしゃあと答え、翻弄される▼独断でソ連に核攻撃命令を発したのは反共・反ソの妄想にとりつかれたリッパー将軍である。完全に狂っていて部下に攻撃を下命し、作戦が動き出してから自殺する。ただ一人の常識人、リッパー将軍付きの副官マンドレイク大佐(ピーター・セラーズ)は彼の越権行為を正そうとする、当然受け入れられない。ビルマで日本人の捕虜となりラングーン鉄道で線路を敷かされた過去がありそのため義足である。であるゆえ日本人を「ブタ」と呼ぶ。キングコング少佐は核弾頭とともに殉職する爆撃機パイロットである。スイッチを押し間違え、核弾頭の先端にまたがったまま発射されたのだ。映像はマンガにひとしい▼「皆殺し装置」が起動し、人類を含む全生物が10ヶ月以内に絶滅するというとき、博士はなんというか「選抜した頭脳明晰な男1人につき性的魅力のある女性を10人あてがい、地下に避難させることにより、人類は存続できる」と熱弁をふるう。核爆発の映像が繰り返しスクリーンに現れ、第二次世界大戦時の流行歌「また会いましょう」の甘いメロディが流れエンドとなる▼この映画のどこが傑作なのか。好戦的で狂った男たちがバタバタ騒いでいて、良識ある男性は力がなく描かれている。愚かさを戯画化したまでといえばそれまでだけど、全体に退屈だ。戦争好きな人間も気にいらない。戦争も大量殺人も虐殺も人類の悲劇どころじゃない。我々の家族が死に、国が滅びかけたのだ。鬼才が作った映画であることは認めるけど、繰り返し見たいとは絶対に思わないですね。