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シネマ365日

2012年11月17日

特集 「ブラックな笑い」ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972年 コメディ映画)

監督 ルイス・ブニュエル

出演 ステファヌ・オードラン/ジャン・ピエール・カッセル

橋を架ける監督たち 

いまさら驚くにはあたらないが「ブルジョワジーの密かな愉しみ」も、ルイス・ブニュエル監督の限りなく繰り返される無意味の連続が、その反復によっていつのまにか意味があるように思わせられる、そんな映画世界に観客を引きずり込んでいく。この映画ではいつまでたってもありつけない食事。同様に「昇天峠」では邪魔ばかり入ってバスが越えられない峠、「皆殺しの天使」はこれまたありつけない晩餐と出ることのできない部屋が設定されていた。堂々巡りばかりして目的地に到達できない、閉じ込められて閉塞する、障害物ばかり現れ本来の目的が達成できない、こんな状況はわたしたちの日常のいやというほどありきたりの現象で、彼の映画はいかにも人生の暗喩であり辛い現実の比喩であるとも受け取れる。しかしそんなことは、ちょっと世間を生きてきた普通の大人なら、わざわざブニュエルが映画にしてくれなくても百も承知だろう。ブニュエルの映画には本来教育的なものは皆無であり、リアリズムでは説明のつかない、合理性と意味解釈を拒否する不思議なシーンがいくつもある。「ブルジョワジーの密かな愉しみ」でいえば、いい年をした裕福な男女6人が、郊外の一本道をなにか目的があるように一心不乱に歩いている、この謎めいたシーンが何度も、それもいきなり挿入される。前後の意味関係はいっさいない。観客は「なにやってんのん?」と思うしかない。彼はそんな映画をつくるのが好きで楽しくてたまらないのだ。彼のエンタメ精神は「ロビンソン漂流記」のようなディズニー顔負けの冒険譚もあれば、本作のような意味拒否もあり「昼顔」のような「性の砂漠」もあるが、共通しているのは「乾いた笑い」だ。スキャンダルでおおいまぶした「小間使いの日記」なんか、登場人物たちは俗物のきわみなのに、呆れながら失笑しながら、どこか自分にもあるそれらが、ばれてしまったような気がしたものだ▼「ブルジョワジーの密かな愉しみ」とは、あっさり言うと「食事しようとする人たちが食にありつけない話」である。もうひとついえばセックスしたいのにできない、焦ってジレジレして気が狂いかける、つまり望みながら得られないのがこの映画の基本ファクターだ。食事しようとしてある場所に集まると日にちが間違っていると女主人(ステファヌ・オードラン)は言い、屋敷の主人(ジャン・ピエール・カッセル)は留守で晩餐はなんの用意もされていない、ではうまい店に連れて行くといって案内したら主人が急死してお通夜だったり、喫茶店に入ればコーヒーも紅茶もきれてしまい水しかのめない。やれ嬉し、豪華な晩餐会のテーブルにつき、優雅なてつきでナイフとフォークを取ったとたん警察が踏み込んできたり、最後はテロリストが襲撃し登場人物はみな射殺される、そしてラストシーンは6人がせっせとよく晴れた郊外の田園の一本道を歩いているのだ。やたら死体と幽霊が出現する。レストランの主人、中尉のエピソードに現れ毒殺を指示する母親の幽霊、6年前に死んだ恋人と彼女、牧師に撃ち殺される老人、警察に現れる血まみれの警官。こんなクソ馬鹿馬鹿しい映画に完結なんかないと観客は思う。まさにそれがブニュエルの本懐であり、到達点のないのが到達点だという彼の結論なのだ。思えば「曖昧」とか「不完全」とか「幻想」のテーマに何人の映画作家が腕をふるっただろう。すべてにこだわりのない、自分のしたいことしかしないクリント・イーストウッドのキーワードは「曖昧」、すべての事件に解決を与える推理小説、なかんづくアガサ・クリスティをこよなく愛し入信し、彼女の世界と表裏一体をなす解決なき「不完全さの醍醐味」に河岸を写したクロード・シャブロル。自分の欲する映像表現を「幻想のような反意と対位法」で作劇したミヒャエル・ハネケ。彼らは意味と無意味の間、生と死の間、混雑と醜悪から砂金のような一瞬に橋をかけようとした監督たちだった。作品はフリーク(変わっている)かもしれないし、彼らの作品にある一種の嫌悪感こそ、人が見たくないものを暴き立てる、根っからの活動屋根性なのだ。ラストにどこまでも続いている道と、それを一心不乱に歩く人物たちは、してみると何だろう。死体と幽霊と夢と幻想のなかを、何に到達することもない現実を歩き続けるということか。こんなことをつきつけられたらもう笑うしかないだろう。