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シネマ365日

2012年11月28日

ジョルジュ・バタイユ ママン(2004年 シリアスな映画)

監督 クリストフ・オノレ

出演 イザベラ・ユペール/ルイ・ガレル

幻想の太陽と海

バタイユはその著「エロチシズム」の冒頭で、エロチシズムとは死に至るまでの生の称揚だと断言している。エロチシズムは人間にとって科学的なやりかたでは到達しえないある意味をもっているとも書く。生殖以外の目的でセックスするのは人間だけですからね、とてもじゃないけど「到達できないある意味」のために、世界中の小説と映画と芝居と、歌と絵画と音楽と意匠その他の、娑婆世界のすべてのファクターは動員されてきたといっても言い過ぎじゃないでしょう。エロチシズムとは欲望ですから、大げさに言うつもりはないけど、すべてのクリエイトはエロチシズムの双子の姉妹です▼この映画「ジョルジュ・バタイユ ママン」も「到達しえない意味」を展開したひとつですが、アブナイ母と息子という、罪という催淫剤が「生の称揚」をさらに高めています。こんな悪魔的な母親がいたらかないません。母親は息子ピエール(ルイ・ガレル)に「わたしは低俗なふしだらな人間よ、わたしを愛するならそのふしだらさも愛して」と要求する。母は息子に女をあてがい性に目覚めさせ、性に対するタブーをなくさせる。たちまち快楽を覚えるピエール。開放的といえば聞こえはいいが、生活は自堕落になり金に困らないプチブルのいやらしさが横溢する。彼らがなにをして生活しているのか最後まで明らかにされない。父親は事故で死ぬが母親はあわてるふうもない。もともと父親は甲斐性がなく、息子はその父親の元を離れ、カナリア諸島にいる母といっしょに暮らすためにやってきた、美しい母親が彼は大好き、という前提でこの映画は始まりました▼つまり「ジョルジュ・バタイユ ママン」は、生活臭のいっさいないところで進む観念の劇です。だから年収いくらなのだろう、なんて俗世間の疑問を持ってはいけないのです。ママンは感情を抑制せず発露するままに生きるのが人間らしい生き方であると教える。息子はなにしろ17歳ですから「息子卒業・男入門」をシャキシャキやらなくちゃいけないのですが、それにしてもすぐ彼は「ママはどこ」「ママは帰ってきた」と聞くのです。勉強は全然していないし、大学にいくようすでもないし。母親がかまってくれないとすねてひきこもり、悩んでいるわりには栄養たっぷりのピザを平らげ、医師からダイエットをいいわたされる。お母さん、本当にいいのでしょうか、高校生の息子に下半身ばかり鍛えさせて▼日本人の小さな親切はやめよう。さすがに母親もこの調子では息子は自立できないとみて、距離をおくために息子を家に残し自分は旅に出る。どこに、いつまで留守にするのかわからない。息子に「はい」カード一枚預けあとは使い放題ってことですね。不道徳なママンは何ヶ月か、女友達といっしょにあちこち旅するが、男と寝たり、なんだか知らないゲームに興じたり。でもだんだん退屈になってきた観客はわたしだけ? こんなことやってみろといわれたらどうしよう(だれも言ってくれないだろうけど)。行きたいところに行き放題、食べたいものは食べ放題、酒場ではもて、お金は使い切れないくらいあり、男は寄ってきてさばくのに苦労する、でもオリのように積もるこの退廃はなんだ。おもろいか、こんな人生▼よそう、貧乏人のひがみは。それに先に言ったでしょ。これは観念の劇だと。とうとうママンは自分が枯れてきたことを知る。欲望は遠きにありて思うもの。帰りなん、いざフツーの世界へ。でも最後にひとつすることがある。息子への決別である。息子は帰郷した母に歓喜する。母は息子をベッドに招く。息子を抱きしめ彼が自慰しているときに自らを刺す。息子は驚きあわて、遺体にとりすがって病院にくるが、母親を安置したベッドの下でまたもや自慰にふけり、びっくりした医師がとめに入ると「僕は死にたくない、死にたくない」と医師の手をふりほどいて叫ぶ。ここまで俗に突き落とすとほとんどブラックじゃないでしょうか。イザベル・ユペールはミステリアスなママンのまま、いいときに死んだわ▼この映画には第三の主人公がいます。カナリア諸島です。スペイン領、モロッコの西約100キロに並ぶ通称「犬の島」。ここで行われたロケにより、砂丘・海・砂漠・水平線・アフリカの夜の盛り場が映し出されます。暗く猥雑で熱く、と思うと無窮の太陽と海の輝き。乾いた砂漠の風。虚無と退廃。この幻想のようにゆらめく現実こそ、ヒロイン「ママン」の生き方にふさわしい情景だったのではないでしょうか。