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特集「ディーバ(大女優)」

2013年1月2日

特集「ディーバ(大女優)」 カトリーヌ・ドヌーブ 
見出された時 「失われた時を求めて」より(1999年 文芸映画)

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監督 ラウル・ルイス

出演 カトリーヌ・ドヌーブ/ジョン・マルコヴィッチ/エマニエル・ベアール

真の主人公 

「見出された時」に出演したカトリーヌ・ドヌーブは56歳だった。デビュー作からでなく、何でこんな中途半端な時期から「ディーバ7」を始めたのか不審に思われる向きもあろうが、50代というのはドヌーブにとって女優人生の爛漫というか、じつに充実した「ハーベスト」のときだった。彼女の主な主演作は20代が23本と圧倒的に多いが、50代は19本、内容も変化に富み質も高い。熱病患者のようなわずらわしい青春の恋愛季節も終わり、子育ても一段落し、マルチェロ・マスヤンニとの間に生まれた子も美しい娘に成長し、父や母と共演するまでになった。ドヌーブは人生にどっしりかまえ、もはやこわいものはないという落ち着きがある。これは大事なことだ。ソフィア・ローレンが美しさの条件に「落ち着き」をあげているのは至言だ。自信と落ち着きは同じものではない、自信は世の中に立ち向かうときに必要なものだが、落ち着きは自分自身を反映するものだ、落ち着きとはいいかえれば「安らぎを感じる心」だと彼女は表現している。だから中年以降、一定の年齢に達した女性が得た人生の落ち着きを、女性自身がもっとよく理解すべきだというのは、貧しい少女時代から刻苦精励して「落ち着き」を獲得したローレンらしい指摘だろう▼そこで本作であるが、ラウル・ルイス監督はこの映画のあとグスタフ・クリムトの伝記「クリムト」を撮ってそれが遺作となった。日本ではほとんど公開映画がないチリの人である。しかしだ。プルーストのとめどない散文による、この多弁な小説の結論部ともいうべき「見出された時」の映画化という、目眩がするような困難に挑戦し、簡にして要を得た出来栄えに敬意を評したい。プルーストは生来の喘息のため半生を寝室で過ごし、信頼する家政婦セレーヌに口述筆記した。厚いカーテンで光を遮断した陰気な部屋で、プルーストは自分にあるたったひとつのデータ、すなわち「記憶」から小説を書いたのだ。ある日ゲルマント大公夫人の音楽会に招待されたプルーストは、庭石にけつまずいた瞬間、ベニスでの記憶を呼び起こす。屋敷に招じられ「いま一曲目が始まったばかりだからつぎまでお待ちを」と執事にいわれるまま、天井まで蔵書に埋まった応接室に独坐し蘇った記憶を反芻する。執事が紅茶を運ぶ。澄んだ紅茶から立ち昇る香りと湯気。ジョナ・レーラーは「プルーストの記憶、セザンヌの視覚」(白楊社 鈴木晶訳)という優れた著書で「脳科学を先取りした芸術家たち」をあげ、プルーストの深い洞察のひとつが人間の臭覚と味覚は記憶という独特の付加をともなっていることに触れた。彼は記憶のやっかいなところは「どんな論理にも従わない、何を忘れてなにを思い出すか、わたしたちは知りようがない」と書いているが、これはプルーストの文体そのものだ▼その応接室でプルーストは自分の文学の決定的な方向を得る。引用がちょっと長くなるがここを書かないと「見出された時」の中心思想があやふやになるし、それにルイス監督の鮮やかな監督術が光るシーンでもあるから、我慢して読んでほしい。「過去の思い出が私を失望から救い、文学への信頼がようやく取り戻せた。つまり一度忘れ去った思い出は過去とのつながりを完全に断ち切り、新しい空気を運ぶ。かつて私達が吸っていた空気を。本当の楽園とは一度失った楽園なのだ。私がマドレーヌの味を思い出した瞬間に死に対する不安が消えた。その瞬間わたしは時間を超えた存在になった。行動や快楽の呪縛から解放され、まるで奇跡のように現在から抜け出した。バルバック(架空の地名)での快楽も、アルベヌチーヌと暮らす快楽も、今やっと実感できた。この印象を解明してある形にしなければ。自分が考え感じたことを暗闇から引き出して、精神的なものに置き換えるのだ。その方法は芸術作品の創出以外にあるだろうか」あのー。蛇足だとは思うけどプルーストの原作はこんなに手際よくレジュメされていませんからね。映画のほうがよっぽどわかりやすいですよ▼ゲルマント公爵一族とはパリ社交界の名門。「失われた時を求めて」の中枢の登場人物たちがここにいる。公爵の愛人オデットにカトリーヌ・ドヌーブ、マルセル(語り手、つまりプルーストを演じるマルチェロ・マッツアレッラのソックリさんに驚く)、公爵の弟シャルリス(映画では男爵)にジョン・マルコヴィッチ。マルセルの初恋の人ジルベルトにエマニエル・ベアール。当時望める最高の配役が得られていることに意欲を感じます。特に男色で裁判沙汰になるシャリルス男爵は貴族の教養とデカダンと退廃を発現して出色だ。マルコヴィッチが少年マルセルにいってきかせるこんなセリフ「君はまだ若い。今のうちに二つのことを学んでおけ。第一に明らかにわかりきったことは決して口にださないこと。第二に質問を受けた場合はよく考えて口を開くこと。この忠告を守れば軽はずみな返事はしないはずだ。もうひとつ、イカリの入った悪趣味な水着も着ないはずだ」どうでもいいことをこれほどカッコつけていう彼の修辞学はどうだ▼大公夫人邸の午後の大演奏会は20世紀を代表するこの小説の解決編である。「見出された時」とはまさに象徴的なタイトルだろう。ここにいたって半生をこの小説に費やしたプルーストはついに真の主人公を登場させる。それが「時間」だ。書き起こしてから30年におよぶ時間は主人公たちを良くも悪しくもさまがわりさせていた。故人となった人物、その子供や孫、零落した貴族、面変わりした美貌、あるいは成功者。演奏会のサロンでマルセルは人々の現在の姿に深い感慨を覚えるとともに、その背景に時間という怪物が巨人のように姿を現すのを見る。プルーストは自分の感性と印象と精神を、とうとう暗闇から引き出し小説という形を与え衣装をまとわせた。このシーンがそのクライマックスである。主人公たちはそれぞれが老いを与えられている。そこへだ、ドヌーブだけが往年と変わらぬいでたちで堂々と現れるのだ。どうみてもヒイキしすぎだろ、監督。

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