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特集「ディーバ(大女優)」

2013年1月6日

特集「ディーバ(大女優)」 カトリーヌ・ドヌーブ 
リスボン特急(1972年 犯罪映画)

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監督 ジャン=ピエール・メルヴィル

出演 アラン・ドロン/カトリーヌ・ドヌーブ/リチャード・クレンナ

メルヴィルの遺作 

オープニングからいきなりメルヴィル・ブルーだ。激しい雨と風。波の音。襲撃先の銀行は海のすぐそばだ。車には男が4人。閉店間近の町は高層ビルが並び無人のごとく静まり返っている。車から男たちが降りる。一人ずつ客を装い銀行に入る。行員がシャッターを下ろす。密室になった支店内。男たちが居丈高にギャングに早変わりするかというとそうでもないのだ。スリリングで緊迫した冒頭のシーンと打って変わって、男たちはマスクにサングラス、拳銃を手にごくふつうの声でああしろ、こうしろ、と指示するのだ。どこか素人っぽい。行員の一人が隙をみて非常ベルを押す。おまけに非常用のピストルを発砲し、ギャングの一人は腹を撃たれてしまう▼事件の捜査に当たったのがコールマン警察署長(アラン・ドロン)。原題は「刑事」なのになんで主人公のコールマンが警察署長と呼ばれるのよ(DVDの字幕だけど)。百歩譲ってほんとにドロンの職階が署長だとしてもいちいち「警察署長」と字幕にだすのはわずらわしい。せめて「署長」だろう。パリの署長は毎日パトカーで巡回するのか。ま、それと映画のできは別だけど、メルヴィルがなんでカトリーヌ・ドヌーブを起用したかよくわからない。彼女は当時妊娠中でろくに動かないシーンばかりだった。セリフが少ないのはメルヴィル映画のいつも通りだから不思議はないとしても、ドロンが刑事に扮するのはこの映画が初めてで、それまでもっぱら犯罪者の側だった。メルヴィルにすれば「サムライ」「仁義」につづくアラン・ドロン主演の最後の映画にして遺作になった。カトリーヌ・ドヌーブの起用といいアクションの不完全燃焼といい、歯切れが悪かった。メルヴィルっぽいこだわりは「リスボン特急」にヘリから入り込んだリチャード・クレンナが、ガウンに着替え、靴を履き替え、磁石でコンパートメントのロックを外す一連の処理を詳細に映すのがリアルだったところだ。ポケットから大きな磁石をだしたときはこんな重いかさばるものを持って、よく特急に空から侵入できたなと思った。ヘリも列車もアメリカ映画式の迫力は必要ないとメルヴィルは踏んだのか、あっさり模型で片付けている▼それはいいのだけど、メルヴィルが得意中の得意とする「男の道行」がしんみりこないのだ。だいいちアラン・ドロンのクローズアップが多すぎる。クレンナとドロンはわけありの親友みたいな設定だが一人はギャングかつキャバレーのオーナーで、一人は刑事、おっと警察署長だ。なんで因果な関係になったのか背景が観客にはわからない。好きに想像してくれということだろう。ドロンとクレンナはドヌーブをはさんだ三角関係にある。あるのにひとつも嫉妬や疑惑がない。ドヌーブがドロンとの密会中、クレンナにばれないかと心配すると、とっくにクレンナは知っているとドロンはいう。おもしろくもおかしくもない言い方である。どこがよくて女はこんな男に魅力を感じるとメルヴィルは設定したのだろう。この映画が白けるのは女がひとつも生き生きしていないからだ。だから男たちは放熱しない。妙に静かでどこまでも冷静に仕事をさばき、友情にあふれ、仁義に厚く、男同士の思いやりにあふれるものの、それが帰着する熱さがない。ギャングは金を盗ってそれからどうするのだ。刑事は犯人をあげてそれからどうするのだ。そんなことをいちいちスクリーンで描写する必要はないが、なんのために犯罪を犯し、なんのためにそれを追うのか。喜びや恨みや嘆きや悲しみの発源地が伝わってこないのは致命傷だ。一言で「リスボン特急」のつまらなさをいえば、人間を動かす欲望というエンジンを素通りしているからだ▼気に入らないところを書いたから、気にいったところも書かないと不公平だろう。欲望の素通りと表裏一体をなすことだ。さすがメルヴィルの「男を泣かせるセリフ」がある。クレンナが助け切れなかった仲間に電話で言う「すまん」。仲間はみんな死んだ。おれだけが生き残るわけにいかない。女も金も命も棒に振ってやる。男の誇りだけ持って死んでやる。そんなクレンナの最期にドロンは圧倒されてしまう。車のバックに凱旋門が遠のいていく。宵闇迫る夕暮れのシャンゼリゼにいっせいに明かりがともる。夜が目覚める。アラン・ドロンの寒々とした顔。メルヴィルの真骨頂はここです。

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