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特集「ディーバ(大女優)」

2013年1月10日

特集「ディーバ(大女優)」 カトリーヌ・ドヌーブ 
家路(2001年 家族映画)

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監督 マノエル・ド・オリヴェイラ

出演 ミシェル・ピッコリ/カトリーヌ・ドヌーヴ/ジョン・マルコヴィッチ/アントワーヌ・シャピー

「いつも家に」 

セリフを忘れた名優が自信をなくし「家に帰って休みたい」そういってスタジオから蒼狼とでていく。乱暴にいうなら「家路」はたったそれだけの映画なのだ。それだけの映画につめきれないほど豊穣な意味と解釈と映像を与えた93歳のオリヴェイラの監督術に敬意を。撮影所からふらふら抜け出した老俳優の自宅はそう遠くない。帰途も彼はセリフのやり直しに没頭する。おぼつかなくバーに入り何事かをつぶやきながら夢遊病者のように出ていく。街ゆく人は不思議そうに彼をふりかえる。彼は家に着きふだんならやさしい声をかける孫にも気づかぬふうに二階の自室へ足をひきずって入っていく。孫がその後ろ姿を凝視する。そこでエンドだ。つまりこの映画は主人公が「家に帰る」映画なのである。ノヴァーリスの「青い花」だったか(まちがっていたらごめんなさい)「ツウ インマア ハオゼ」という言葉が出てくる。人は「つねに家へ」文字通りそういう意味だ。どこにいこうと、どこへ旅しようと亡命していようとつねに「家」に帰る。たとえそれが廃墟であろうと。家とは人を安らかにさせ受け入れる、母親の胎内と同じ機能をはたす場であり、人が永遠に回帰する場である。人はそこで他人の目を避け、社会とのかかわりを一時中断し、疲れた体をやすめ、精神を安定させて再び現実社会にもどる。オリヴェイラらが「家路」に与えた「家」にはそんな解釈がある。もちろんそれだけではないけれど▼老優ヴァランスにミシェル・ピコリ。劇中劇の舞台でヴァランスの相手役の王妃にカトリーヌ・ドヌーブ。ヴァランスに映画出演をオファする監督にジョン・マルコヴィッチ。ドヌーブもマルコヴィッチも出番は少ない。ドヌーブは劇中劇だけのシーン。マルコヴィッチも終盤になってやっと現れる。それも声を聞いてやっと「マルコヴィッチじゃない」とわかるほどさりげない風体である。冒頭の芝居が延々いつまでやっているのだろうと思うほど長い。舞台がはねたヴァランスを待っていたのは妻と娘夫婦が交通事故にあった知らせだった。彼は一時に家族を失う。残されたのは小学生の孫セルジュひとりだ。エージェントが仕事の話をもってくる。テレビ映画の主演だがセックス・ドラッグ・暴力の内容にヴァランスは断る。「だれかと暮らさないのか」とエージェントは暗に女性関係をほのめかすが「わたしは一人じゃない。孤独といっしょだ。これまでの人生が充実していたから張り合いがある。友人にめぐまれ仕事もある。さびしがっているヒマなんかない」彼の生活は淡々と過ぎる。悠々自適である。いつもの喫茶店の決まったテーブルでコーヒーを飲み、新聞を読み、チップをおいて出る。靴屋のウィンドウで気にいった靴をみつけて買う。これはおいはぎにあい上着も靴も時計も盗られてしまった。ときにはそんなこともあるが、セルジュにおみやげを買い学校へ迎いにいき、家でリモコンの車を走らせる。セルジュはそんなおじいちゃんになついている。ヴァランスに映画出演の話が舞い込んだ。アメリカ人の監督ジョンがジョイスの「ユリシーズ」を映画化する、しかし配役の一人が入院し急遽代役をたてねばならない、脇役ではあるがぜひヴァランスにひきうけてほしいと頼みにきたのだ。ヴァランスは英語のセリフであるうえ、撮影開始までに3日しかないスケジュールに難色を示すがたっての願いに応じる。撮影が始まるとどうも調子がでなかった。セリフをまちがえる。たいしたまちがいではないが監督はこまかく「ダメ」をいれる。ヴァランスをきづかって監督は撮影に休憩をはさみ、明日までにセリフをおぼえてくれという。ヴァランスは徹夜で役作りする。翌日、しかしヴァランスはまた同じところで間違う。つぎのセリフがでてこない。ヴァランスは役の衣装のまま「家に帰る、休みたい」と言い残しあともみずスタジオを去る▼家でヴァランスは気力と体力をとりもどすのか。監督はそれにふれない。人は母親の胎内のような「家」で成長したそこから社会に出ていき文明と接触する。その社会では成功することが金科玉条とされ、野心に燃え、お金に執着し効率と量産が求められる。科学が重要な役割をにない、企業活動は忙しく製品を市場に送り出す。ものがあふれ利便が最優先された結果、ものに依存しなければ人間は生きていけなくなった。そんな生活に疲れて家にかえり回復しようと思うが、それは一時的なものにすぎない。文明社会は依然として合理化と進歩の名のもとに人を疲弊させる仕組みにはずみをつけていく。監督はインタビューでそう自作を語っている▼その厭世観のわりには「家路」にたちこめている明るさをどう説明するのですか、オリヴェイラ監督。オープニングに流れるのはアコーディオンが奏でる「パリの空の下」だ。現代の人が知り尽くし、これからも新しい人に知られていくであろう、このシャンソンのように、どこかで人は繰り返し、繰り返し感動を再生していくのではないか。確かに文明や社会の混乱は避けようがないにしてもそれだけがすべてではない。奪われないものを人は自ら創りだす。ヴァランスは言う。「心のない才能は無意味だ」と。だれにも奪われないものに気がつくために、心という、あるいは精神という、魂という、それぞれの家に人は帰るのではないのですか、監督。映画にたちこめるあまりに透明な空気は、そうとしか説明がつかなかったのだけど。

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