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特集「ディーバ(大女優)」

2013年2月10日

特集「ディーバ(大女優)」 マリリン・モンロー 
ナイアガラ(1953年 サスペンス映画)

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監督 ヘンリー・ハサウェイ
出演 マリリン・モンロー/ジョセフ・コットン

モンローの時代 

ハサウェイ監督とマリリンは相性がよかったと思う。ハサウェイが語るマリリンの思い出にはとても温かい理解がにじんでいるのだ。正しくても冷たい、という理解のしかたもあるからね。ハサウェイは批評家たちの意見とは一致しなかったにもかかわらず終始マリリンを買っていた。自分が出会ったどの女優よりも才能があり、聡明ですばらしい仕事相手だとほめていた。学校は出ていなくても生まれつき賢かった、だがだれもマリリンを能力相応に扱わなかった、とくに男たちにとってマリリンはちょっと恥ずかしい存在だった、アツアツだったジョー・ディマジオさえもと指摘している。この男たちの「ちょっと恥ずかしい存在」意識はマリリンがスターとして成功するにつれて、マリリンへの蔑視に簡単に変化していった。「あんな女が」という、彼女の生まれや学歴のなさをあなどる「上から目線」で見る監督や俳優がいた。成功に対する嫉妬ね。日本では田中角栄のことを「小学校あがり」として執拗に陰口をたたく財界人や閣僚がいたじゃないですか。老いて権力を持ち、まして女を蔑むことが好きな男はどこにでもいる。彼らは映画を成功に導いたのはどうみてもマリリンであるからそれは認めたとしても、どこかで必ず足を引っ張る言辞を吐いた。彼女は本能的にそんな監督の自分への軽蔑を見抜き嫌った。親しい友人には彼らに対する激怒を示している。しかし苦労人という以上の、子供にとって過酷ともいえる状態で大きくなったマリリンは感情だけで敵をつくるようなドジはふまなかった。彼女がオフィシャルに表明したどんな会見でも、監督や共演者への言葉は敬意にあふれ謙虚だった▼であればこそ自分への高い評価や信頼を感じ取ったハサウェイ監督との仕事は、マリリンにとって楽しく自信を持たせてくれたにちがいない。ハサウェイにすればマリリンがおどおどして自分の能力に気づいていないのは、今までだれもマリリンをそんなふうに扱わなかったからだった。撮影中ハサウェイはナイアガラの瀑布にまけない罵声をスタッフに浴びせたが、それはマリリンやスタッフを愚弄するものではなかった。監督はマリリンを自由にさせた。その結果この映画には大きくお尻をふって歩くマリリンが、ベッドで夫の問いかけを無視してタヌキ寝入りするふてぶてしいマリリンが、男を誘惑し破滅させるのに自信満々、弱い夫への侮蔑をあからさまな視線にこめる演技派マリリンが姿を現した。無邪気で愛らしく、男の一顰一笑に従うセクシーで可愛い女のイメージは掻き消えている。監督が自分を批判しないという実感を得たことでマリリンの精神状態は安定し、共演のジョセフ・コットンは仕事のやりやすい共演者であることを認め、人の話に耳を傾け、すぐ顔を赤らめるマリリンが「迷子の小さな女の子のようだった」と印象を語っている。マリリンはプラチナ・ブロンドにショッキングピンクの胸もあらわなドレスを着て、宿泊するレインボー・キャビンの屋外のディナー・パーティーにものうげに現れる。宿泊客たちはシーン。全員注視のなかで「これをかけて」と一枚のレコードを選ぶ。それが「キス」だ。マリリンが歌手としても一流だとわかったのは「キス」の歌唱力によってだ。それまでのラブソングの陳腐な歌い方を一変させ、倦怠と蠱惑にみちたバラードは毎晩自分のアパートでエラ・フィッツジェラルドのレコードを聞いてマリリンが体得したものだ。マレーネ・ディートリッヒやベティ・デイビスの、叩いても生き返るようなものすごい悪女ではなく、犯罪者の微妙な陰影をマリリンは繊細に演じた。殺したはずの夫においつめられ鐘楼で絞殺されたときとそのあとのシーンで、マリリンの顔と足の向きが異なっているという、ちょっとした撮影の手違いも今ではご愛嬌だ。マリリンは「ナイアガラ」でついにスターの地位を確立する▼マリリンは自分がマリリン・モンローという大スターの誕生にたちあっていることが、たぶんわからなかったのだろう。ハサウェイ監督がいくつかのシーンで、自前の服を着てみてくれと注文すると、セーターとパンツしか持っていないと恥ずかしそうでもなく答えた。週給750ドルは母親の入院費や家賃とレッスンの勉強代にほとんど消えており、食事も衣服も…今でも普段着にGパンをはいた最初の女性はマリリンだといわれるくらい簡素だった。マリリンに背中合わせになっている栄光と哀しみは、マリリン・モンローという女性を完膚なきまでに演じたもうひとりのマリリンが、あまりに完全に成長したマリリン・モンローが、セックスシンボルとして独り歩きし始めたことだろう。マス・ヒプナティズムとは大衆の催眠状態だ。大衆のアイドルになってしまったスーパースターがほぼ例外なく陥る領域だ。中田耕治氏は例としてビートルズ、プレスリー、B・Bをあげておられる。日本でも石原裕次郎がタフガイを嫌い方向転換しようとしたが、タフガイは地縛霊のようについてまわった。固定したイメージから脱皮したのは「007」から早い時期に脱出したショーン・コネリーが数少ない成功例だろう。クリント・イーストウッドは自作を監督しながら我慢強くチャンスを待った。カトリーヌ・ドヌーブはあえてゲテモノのような役でもひきうけイメージの固定化を慎重に避けた。しかしマリリンの場合成功が急速でしかも大きすぎたことと、彼女の感性の繊細すぎたこと、乞われれば「断るのは気の毒。可哀想」という受容性と依存する弱さが歯車を狂わせてしまったように思える。結婚でさえ彼女は自分がまちがっていることに感づいていたのに、いまさらなかった話にするのは男に気の毒という限りない受容と、結婚すれば守ってもらえるかも、という対幻想でやってしまうのである。マリリン自身気づいていなかったかもしれないが、マリリンは守られるのが自分で思うほど似合う女ではなかった。みかけよりもっと強かった。二度目の結婚以来世間の名声と経済力で相手を守ってきた、少なくとも伍す以上に支えてきたのはマリリンのほうではないか。

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