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特集「ディーバ(大女優)」

2013年2月11日

特集「ディーバ(大女優)」 マリリン・モンロー 
紳士は金髪がお好き(1953年 コメディ映画)

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監督 ハワード・ホークス
出演 マリリン・モンロー/ジェーン・ラッセル

マリリンという詩

男も女もマリリンになびくのはなぜか。なびくとは大げさな、マリリン・モンローのあの白痴的な一生のどこがいいのだと言うような人が、モンローの生涯のアウトラインが明らかになった今日はたしているだろうか。モンローとはいまの時代に何を示しているのだろう。エリザベス・テイラーの美貌、オードリー・ヘプバーンのエレガンス、キャサリン・ヘプバーンやイングリッド・バーグマンの知性、マレーネ・ディートリッヒやベティ・スミスのふてぶてしさが売りだった女優とのちがい。現代にマリリン・モンローの再来といわれた女優はいるが濃厚な存在感がない。マリリン・モンローってなんなのだろうとつくづく思う時がある。もちろんJFKとその弟との情事(ロバートの場合のそれは否定されているが)自殺未遂や有名人との結婚・離婚など、今でならワイドショーのネタにことかかなかったのは事実だ。しかしマリリンが死んで50年以上たって、そんな文献的な事実がいくつ発掘されたところで、彼女の女優としての、人間としての根幹にひとつも変化はない気がする▼「マリリンはマリリンだ」そういってしまう以外おさまりのつかない、とてつもない容量がマリリンにある。彼女の晩年の自己破壊を知れば36歳で死んでしまい、それが伝説の仕上げになったならそのほうがよかったとも思う。明らかにマリリンは死にたがることがあったし、七度ともいわれる自殺未遂がある。あれだけの成功を手に入れても満たされなかった。三度結婚したが16歳の結婚はともかく、ジョー・ディマジオにせよアーサー・ミラーにせよ、彼女が求めたのは夫というより保護者に近い。マリリンが生きていれば2013年で87歳になる。生存が不可能な年齢ではないだろう。だれかといっしょか。マリリンにはなんでも打ち明けている親友が何人かいた。養子をもらいおだやかな老後か。ロスの白いこじんまりしたスペイン風の自宅で、海辺を歩きながら「ダイヤモンドは女の親友」を口ずさんでいるだろうか。彼女は晩年それも死の年くらいになると、生活を建て直そうと本気だった。苦しむことはあっても彼女の生きる活力源だった映画の仕事はなくなり36歳という自分の年齢におびえてもいた。その一方で弱り切った精神と肉体のどこかで、女優生命が終わろうとする最大のピンチは、今までのマリリン・モンローというイメージの固定化されたさなぎから、演技派女優に羽化する最大のチャンスととらえていなかったか。フォックスは「女房は生きていた」で立ち直れそうもないマリリンを解雇したが、マリリンじゃなければオレは降りると共演のディーン・マーティンがタンカをきり、それを人づてに聞いたマリリンは泣いてしまった。フォックスが折れ撮影再会が決まった。睡眠薬と覚せい剤で肉体が瓦解しつつあるとき「希望、希望、希望」と自らによびかける精神のかすかな声をマリリンは聞いていたのだ。「希望、希望、希望」とはマリリンがアーサー・ミラーとの結婚式の写真の裏にかきつけた言葉だ。マリリンが死後50年たってもわたしたちをひきつけるのはなぜだろう。マリリンとは、たぶん彼女自身がマリリンという詩を持っているのだ。てのひらに包んでめでる藍の青磁の陶器のような、透明な詩の魂が今もわたしたちの心を洗うからだ▼マリリンはきちんと計画をたてるとか、秩序立てて考えるのが苦手だった。部屋は乱雑で整理整頓をしなかった。それでいて神経は過敏で高圧的な大きな声や批判に過剰に怯える。ときどきおそろしくアタマのいいことを言う。つきあうのがたいへんな女性ではあったと思う。セリフの暗記も、自分の考えを筋道立てて話すのも苦手だった。記者会見の前に何度も練習した。自分の言うことが笑われるのではないか、失敗するのではないかと心配でたまらなかった。裸でいるときだけ安心できた。マリリンが裸の解放感を知ったのは、孤児院のユニフォームを脱いだときからだ。自分を孤児だと教えるこの服を脱いで裸になればほかの人となにも変わりないことに安心したのだ▼そんなことを考えながら「紳士は金髪がお好き」をみていたら、マリリンが「ダイヤモンドは女の親友」を共演のジェーン・ラッセルと歌っていた。ジェーン・ラッセルは内気でなかなか打ち解けないマリリンを、最初どう扱えばいいかわからなかった。撮影が終わったあとも遅くまで残ってダンスの練習をしているマリリンをみた。ジェーンはいっぺんにマリリンが好きになった。歌と振り付けを指導したコーチは「マリリンが遅刻するのは不安で眠れなかったせいだ。セットに入る前に何度もメイクを整えないと不安でいられなかった。それに社会経験が乏しいから謝る方法を知らなかったのだよ」。この映画は監督に恵まれた。ハワード・ホークスという、俳優をいじりまわさないさばけた監督のもとでマリリンは勢いを得た。金髪のラブコメというお定まりのパターンだったがスクリーンのなかのマリリンに迷いはない。のぼりつめるところまでのぼりつめる。きわめるところまで極める。これはマリリンが女優を始めてから12本目。1952年のなんと6本目の仕事だった。洪水のように仕事が入ってきていた。アタマはよわいが男たちを手玉にとるテクは長けている金髪娘に扮したマリリンはこんなセリフをいう。「お金持ちの男は美人の女と同じなの。どうせ結婚するなら美人のほうがよくない? 自分の娘を貧乏人と結婚させたい? なんの不自由もない幸福な生活を願うでしょ。わたしがそれを願っちゃいけないの?」「確かにそうだが。お前はバカだと聞いたがそうは思えん」「わたしが利口そうにすると男はいやがるのよ」このセリフはマリリンの提案によって書き加えられたものだ。彼女の時代感覚は冴えていた。自分の位置づけはむろん女のそれもわかっていた。マリリンは1950年代の性差別を皮肉ったのだ。親友のジェーン・ラッセルのギャラは15万ドル、マリリンは1万5000ドルだった。食事は質素でパーティーには衣装部から借りたドレスで出席、小さくて狭いアパートに住み、部屋は散らかし放題で床にはトレーニング用のダンベルが転がっていた。酒に弱かったからほとんど飲まない。限られた給料で母親の仕送りなどをやりくりしていたが、契約にしばられ作品も監督も脚本も選べず、スタジオのいいなりにアタマの弱いボインの金髪をいつまでも演じるのは不満だった。「ナイアガラ」から始まるマリリンの本格的な活動は10年に満たない。まちがいなく本作はマリリンの死まで、残された短い全盛期をあますところなく示す傑作だ。

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