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特集「女のわがまま」

2013年3月5日

特集「女のわがまま」 エマ (1996年 恋愛映画)

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監督 ダグラス・マクグラス
出演 グウィネス・パルトロー/トニ・コレット

恐るべきオースティン

 エマ(グウィネス・パルトロー)が親友のハリエット(トニ・コレット)に言う。「わたしが認めない相手との結婚は人生の堕落よ」なんて、いったいお前は何様か、といいたくなるセリフがこの映画には山盛りだ。ジェーン・オースティンが生きていた時代からすればごく当然の日常のやりとりだったのだろうが、原作者自身が「わたし以外にエマが好きになれる人は少ないと思う」と言っているように、エマは恋のキューピッドを気取る、鼻持ちならないイヤミな女なのだ。このお嬢さんは若くてきれい、というだけで許されている(現代なら)そのへんのおバカだろうな…観客の、たぶんそんな思いを胸に映画はすべりだす▼なにしろ口から出てくるセリフが「階級が低い」「職業が農夫だからダメ」「貧しい」「家柄が低い」「名家の後ろ盾がない」とかばっかり。エマは自分が裕福な名家出身でなんの苦労もなく、ヒマな時間に貧しい人々を訪問しやさしくしていれば満足という世間知らずだ。家庭教師のテーラーとウェストン氏を結びつけたことから、恋の縁結びが自分のミッションのように思い込み、周辺にいる適齢の男女をすべからく幸福にしようと八方手を尽くす。最大の犠牲者はハリエットで、エマが口をはさんで純朴な青年農夫との恋はおジャン。エマがハリエットと結びつけようとした牧師は、本命がエマで、ハリエットなんか眼中にない、彼が好きなのは自分だとわかるとのうのうとそれをハリエットにうちあけるエマの無神経さ。人が好いとか、可愛いわがまま、ではすまない苦労知らずの良家のお嬢さんの残酷さを、グウィネス・パルトローは痛快なまでに白痴的にすら演じている▼映画的空間はでもイギリスの自然の美しさがあふれている。エマ父娘が住む「ハートフォード」は緑なす田園。赤レンガの家、なだらかな丘にはのんびりと羊の群れ、無邪気なヒロイン・エマにふさわしい環境がスクリーンに写っていく。エマには兄にも等しいナイトリーという青年がいて、彼だけがエマの逸脱がわかるが、それでも彼女を愛している。しかしエマが没落した家の娘をみんなの前でバカにしたのをみて「なぜ不幸な境遇にいる女性に同情してやらない。それに君はハリエットを愛する男が農夫だから家柄が低いというが、知性ある農夫との結婚が堕落なのか」それというのもエマがフランクというプレーボーイに熱をあげていると知って、ナイトリーはますますエマの人格を疑うのだ。彼女がハリエットと縁結びしようとした牧師は、エマに断られたらさっさと他の女と結婚するし、その女がまた二言目には格式がどうの、出身がどうの、家柄と資産がどうのとしかいわない俗物だ。こういうストーリーが二時間続くのだ、二時間ですよ。見ながら「ばかばかしい。なんでこんな映画をみているのだろう」という気になるのに▼きっとそこなのだ、ジェーン・オースティンのおそろしさは。彼女の小説は6作ある。ヒロインはみな裕福な名家の娘。登場人物は牧師、軍人、地方の名士、ハンサムな青年。舞台は田舎もしくはロンドン郊外。映画化された作品には住居や室内や、家具調度品に18世紀の由緒ある格調の高さがうかがわれる。オースティンの生年没年は1775年~1817年だ。42歳で没したから長いとはいえない一生だった。ヨーロッパは波瀾万丈の時代で、生まれてすぐアメリカの独立戦争があり28歳のときフランス革命がある。同時代の作家、イギリスではバイロンやシェリーや、フランスの初期ロマン派など、多少でも時代の影響をうけずにおれなかった作家たちとは超越して、イギリスの田舎の自分の身の周りに起こった、自分が経験したことだけを書いた。こんなところビクトリア朝の色彩のなかに生きる、アガサ・クリスティのミス・マープルみたいである。クリスティは自分の祖母をモデルにしたと言っているが、精神的モデルはオースティンではなかろうか▼このおかしな映画のどこに引きずられるのか。いつの時代も変わらない人間のエゴ、ご都合主義、心理の綾…なにしろすれちがい、思い込み、カンちがいの連続でこの映画はなりたつのですからね。立派としかいいようがない。ヒロインのあさはかさや自分ではそれと感じていないわがままが、彫り込んだように造型されているのは、オースティンにとってはそれらが人間心理の地図のごとく俯瞰的にとらえられていたからだ。狭い範囲の人間関係を徹底的に書き尽くす作家の目の繊細な深さ、これですね、本作の魅力を一言でいえば。ヒロインが魅力的な女性でもない、ヒーローがいるわけでもない、毎日変化のない日常があり、平凡な会話がやりとりされている。それがなんで小説になり、映画になるのか。大味のアクションや史劇や大スペクタクルになれてしまうと、つい見落とす「クリエイト」の視点と原点がこの映画にはあると思えます。

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