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特集「女のわがまま」

2013年3月8日

特集「女のわがまま」 ダーリング (1965年 恋愛映画)

監督 ジョン・シュレシンジャー
出演 ジュリー・クリスティ/ダーク・ボガード/ローレンス・ハーヴェイ

埋葬した未来 

 わがままな女のなかでもカマトトっていうのはいやな女のひとつの典型だな。たとえば「バッド・ティーチャー」のキャメロン・ディアスは自分のわがままを充分認めているクールな自己認識がある。純情な可愛い女のふりなんかしたことない。しかし自分のいやな性格がわかっていながらそのいやらしいところを最後まで感じない、頭から尻尾までオール天然カマトトとなると、どんな女になるのだろう。そう思っていたら、あった、あった「ダーリング」が。これといってたいした映画ではない「ダーリング」が、アカデミー主演女優賞やゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞やらニューヨーク映画批評家協会の監督賞やら、やたらあっちこっちで受けたのは、今から思うとカマトト文化というポピュラー・カルチャー(大衆文化)の根っこがこれにあったからだ。大衆文化とはなにかという「カルチュラル・スタディーズ」の発祥はそもそもイギリスだけど、本作は監督・主演・共演みごとにイギリス人で固めたイギリス映画です。ヒロインはサクセスを求めるごく「フツー」の女の子ですが、その彼女が他人からみれば文句のいいようのないサクセスに至ったのに心は満たされない。彼女のわがままはどこまでも現状否定、つまりカマトトのバージョンの上に成り立つ。一言でわがままと言っても具体的にはどういう傾向をさすのか。まず自己中心であることはイロハのイ。それにともなう攻撃的・排他的・独占的・独善的・侮蔑的・嘲笑的・奸智篭絡的などなどの現象があるが、それをモロにみせる女はめったにいない、そんな性格をまともにみせたら「わがままの核・すなわち自己顕示欲」のために必要な自分への礼賛者(役者にとっての観客に相当する)は干潮時の潮のごとく引いてしまう。だから謙虚という衣装をカマトト女はほどこすのではないか▼ジュリー・クリスティは「ダーリング」によって注目され「ドクトル・ジバゴ」「恋」「遙か群衆を離れて」「ギャンブラー」「シャンプー」などで映画賞の常連になっていきます。もしウォーレン・ベイテイとの、結果的に離別に至った同棲に、もっと早く見切りをつけて一時引退のような空白期間をつくっていなかったら、ディーバと呼ぶにふさわしいキャリアを形成していたかもしれません。チョイ役でスクリーンに出ることはありましたが実力とはほど遠かった。でも「アウェイ・フロム・ハー」でアルツハイマー症の初老の人妻に扮し、気品ある美貌と演技力で数々の映画賞を獲得して復活を印象づけました。24歳で主演した「ダーリング」から41年たっていました▼本作はイタリアの侯爵夫人として、華麗な半生を出版することになったダイアナ・スコット(ジュリー・クリスティ)のインタビューで始まります。インタビュアーはロバート(ダーク・ボガード)。彼はダイアナが気に入り番組収録後も会うようになりほどなくお互いに家庭を捨てアパートで同棲。ダイアナは大企業社長のマイルスの招待を受け、つきあううち社交界の退廃的な豪奢に酔いしれる。マイルスの手引きで低予算映画には出演する、歩く広告塔にはなる、モデル業界で顔は売れる、マイルスの富と権力に夢中になるダイアナにロバートの愛情は冷めていく。ダイアナは妊娠したが不倫の子を育てていく自信もなく簡単に中絶してしまう。再びロバートとの生活は始まったが仕事に没頭するロバートのそばでダイアナは手持ち無沙汰だ。マイルスとの仲が復活し女たらしのマイルスと深い関係に。ロバートに問い詰められたダイアナは逆切れしてヒステリーが爆発▼不思議なことにだれがみても成功したとしか思えないダイアナにいつも不満が充満し、自分以外のだれかを責めてばかりいるのです。ロバートはそんなダイアナをあわれに思うがこの女といる限り破滅するのは自分だと気づく。ダイアナはイタリアの公爵のプロポーズをうけ結婚。7人の子連れ公爵の妻としてなに不自由ない身の上になるがそれでも物足りない。体ひとつでロバートのもとに走るが「イタリアに帰れ」つめたいお言葉。監督が冴えていたのは、カメラマンとやけ酒飲んでどんちゃん騒ぎしながら、金魚の鉢に酒やら食べ物やらをドボドボ注ぎ、目が覚めると金魚は死体で浮いていた。これホントの金魚だろ。ダイアナの冷酷さや浅薄な性格や思いやりのなさが一目瞭然だわ。彼女にとったらロバートも誰も彼も金魚なみなのよ。日本には「知足」という素晴らしい言葉がある。知足という言葉は知らなくても知足のスピリッツを監督は知っていたと思う。ダイアナの金魚をマッチ箱にいれて川に流したあと、彼女の人生にはもうなにもすることがない。空虚な人生が川のように流れていく。埋葬したのは金魚ではなく彼女の未来なのだ。