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シネマ365日

2013年5月15日

私が、生きる肌 (2011年 サスペンス映画)

監督 ペドロ・アルモドバル
出演 アントニオ・バンデラス/エレナ・アナヤ/マリサ・パレデス

皮膚がつくった別人生 

 アルモドバル監督待望の最新作、ということでわくわくしながら見ました。やられるなー、やっぱり。真実と逆説、人生の意味と無意味、秩序と無秩序、コメディとシリアス、女性になった男性にこしらえあげた本物のような女性らしさ、それら矛盾したモザイクの一片一片をきちっとはめこんでいくと、目も綾なタペストリーが織り上がる。ラストシーンは、監督が観客にぐいぐい強いてきた緊張が微塵になって空中に霧消する、そんな虚無の花火が圧巻だ▼12年前車の事故で妻をなくした整形外科医ロベル(アントニオ・バンデラス)は医学界でも注目の天才外科医。ひとつ間違えばハンニバル博士になっちゃう危ない設定は、もちろんアルモドバルの得意とするキャラです。案の定ロベルはなにかたくらんでいる、いやとても人にはいえないことを隠している。壮大な邸宅の一室には冷たく無機質に光る手術室があり処置室がある。これら大道具・小道具を駆使したセットはそれだけでひとつの「物語」をかきたてる。美術はアンチョン・ゴメス。撮影はホセ・ルイス・アルカイネ。音楽がアルベルト・イグネシアス。アルモドバル映画になくてはならぬスタッフが阿吽の呼吸で脇を固めた。そこでなにが始まっているのだろう。あわてず主人公ロベルの身の上を、邸宅で家政婦・秘書を兼務している母親マリリア(マリサ・パレデス)の打ち明け話からきこう。彼の兄弟が妻と不倫し車で外出中事故に、弟は助かったが妻は全身やけただれロベルの献身的な看病で九死に一生をえた。しかしある日自分のもえがらみたいな容貌と皮膚に我をわすれ自殺してしまう。忘れ形見の一人娘は美しく成長しロベルは目にいれても痛くない。母親の死にショックをうけひきこもりになっていたがようやく症状が回復し、ロベルは気晴らしにパーティーに連れていく。ここで会った男ビセンテが娘を強姦する。娘は再び精神を病み、近づく男を強姦魔だと思い父をも恐怖し、とうとう窓から飛び降り自殺する。つくづくロベルは家族の女運に恵まれないのである▼彼はとんでもないことを考える。つくづく天才は怖い。復讐のためビセンテを誘拐し4年間監禁して手術を繰り返し、膣をつくり乳房を与え女性の皮膚にして性転換しちゃうのである。外見は転換しても大脳はそのままだからビセンテがロベルを許すはずがない。チャンスをうかがい脱走やら自殺やらを試みるがみな失敗。ロベルは冷たく「本気で自殺するなら首を切れ」といいおいて監禁室を出ていく。冷た~▼アルモドバル監督はバンデラスに演技のヒントとしてメルヴィルの「仁義」や「サムライ」におけるアラン・ドロンの無表情を指示しました。かねがねその二作をアルモドバルは絶賛していました。バンデラスは22年ぶりのアルモドバル監督との共演です。かつての監督の秘蔵っ子はハリウッドに進出し成功(といっていいと思います)をおさめ、再びスペインに帰りました。最新作ではピカソが演じられる年齢になっています。彼の無表情は顔そのものよりシャーレに血液を一滴落とす、メスを取る、薄い人工皮膚をはめ込むなど、それによって人を操ることになる外科医の冷たい雰囲気をそれなりに出していました▼監禁され女の肉体になったビセンテは、肉体は乗っ取られても自分を失わずにいるにはどうしたらいいか。それに意味があるのかないのか本人にしかわからない方法でアイデンティティを求めます。毎日壁に日付を記していくのです。無人島のロビンソン・クルーソーと同じことをするのですね。もうひとつはビデオでみた「心までは奪えないヨガのテクニック」に魅せられ毎日ヨガをやる。全裸にみまごうスキンスーツをつけ、ヨガのポーズを取るエレナ・アナヤの肢体はほとんど神秘的です。ビセンテはとうとうロベルに愛を告白し二人はセックスにのぞむのですが、彼女の膣はまだ手術の後遺症を残し痛みのため最後まで到達できません。ロベルはやさしく「待つよ」というのですがこれが命取り。ビセンテは「バッグにワセリンがあった、あれをとってくるわ」など、幻想的、恍惚的なベッドシーンから、いきなり現実的かつ具体的かつ即物的な状況に切り替えて面白がるのが、いつもながらのアルモドバルです▼バッグから持ってきたのは拳銃だった。監禁中の邸宅から脱出する最後のチャンス、ためらうことなくビセンテは発砲する。自分のものになるという約束はうそだったのかとロベルは死に際にききますが、これもアルモドバルの大好きな愛と裏切りのテーマです。これまでの彼の映画には切り裂くようなきつい現実と人間のいい加減さと、曖昧さが高いテンションで織り込まれていましたが、最後はどこか救いがありました。「オール・アバウト・マイ・マザー」でも「ボルベール 帰郷」や「トーク・トウ・ハー」でも温かいまなざしがありました。でも本作はちょっと違います。監禁から脱出することによって自由とアイデンティティを取り戻したはずのビセンテを母親すら見分けられない。ビセンテに移植された別の皮膚は別の人格をつくってしまった。自分が生きてきた肌とともに生と性の痕跡さえ消えてしまった。虚空に放り出されたビセンテはうつろな現実にたちすくむ。いったいどうしてくれるのだ監督。かわいそうと思わないのか。全然思わないみたいですね。アルモドバルの、混乱の秩序ともいうべき世界観や人間観からすると(こうなった以上キミどないかして生きていくしかないなあ)とでも言う感じ。陰の中の陽、陽のなかの陰があわさって現実をつくっている。監督は愛と残酷さの実相をほどいてみせるがそのほどきかたは悲観的でも楽観的でもない。オープニングにみられる身をもむような幾何学的な螺旋形って、まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」じゃないですか。本作は三部作くらいの第一作になるような気がします。