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シネマ365日

2013年5月18日

暗殺の森 (1970年 社会派映画)

監督 ベルナルド・ベルトリッチ
出演 ジャン=ルイ・トランティニャン/ドミニク・サンダ/ステファニア・サンドレッリ

境界を超えていく人 

 半世紀近くたってから見直しても、最初の印象ってあまり変わらないものですね。もっとも昔は、どうもわけがわからんが随分いい加減な連中だなとか(マルチェロとアンナのことです)森で暗殺するシーンが長すぎるのは監督のサド系かとか、なんでこれが天才の作品なのだろうとか(同監督の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、いい年したマーロン・ブランドがいやに張り切っているなあ、というわかりやすさがあったので、こっちのほうがおもしろかった)、第二次世界大戦前のイタリアという歴史的な背景も感知せずみていたからその程度の理解だったのだけど、今見てもなおその域から進んでいるように思えないのは自分でもショックでした。人間って時間がたっただけでは賢くならないものなのね(人間、じゃなくてお前がだろって? そうかもね)▼28歳のベルトリッチは若さの勢いをかってこれでもかと当時の反社会的要素を入れ込んだ。ファシズム、同性愛、小児愛、暗殺、不倫。主演三人をみてみよう。マルチェロのジャン=ルイ・トランティニャンは40歳の男ざかり、その妻ジュリアにステファニア・サンドレッリ24歳、ドミニク・サンダに至ると信じられないけど19歳だ。この三人がスクリーンのヨーロピアン・テイストを濃縮体現する。マルチェロは子供の時男色を強要した相手を誤って射殺する。そのトラウマから自分には異常な殺人嗜好があるのかもしれないと恐れるようになり、体制に順応することで異常性をカモフラージュしようとし、ファシストになる(原題は「順応者」)。彼にくだされた指示は彼の大学時代の恩師であり反ファシズムのクアドリ教授暗殺だった。マルチェロは新婚旅行を兼ね教授のいるローマの自宅を訪問する。そこで教授の妻アンナ(ドミニク・サンダ)に出会い、いっぺんに魅了される。咥えタバコでパンツのポケットに両手をつっこんだ、挑発的なドミニクが姿を現したとたん「アッ」という間もあらばこそ。いくらなんでもちょっと早過ぎはせんか。暗殺計画進行中というのに、ジャン=ルイ・トランティニャンはあの憂鬱そうな顔にもかかわらず「自分といっしょにブラジルに高飛びしよう」なんて恩師の妻を口説いているではないか。でも結局彼は森で教授の暗殺を見届け(これが元老院におけるシーザーの暗殺みたいに、たくさんの男が手に手にナイフで滅多刺しという残酷な手口)助けを呼んで車の窓ガラスを叩くアンナを一瞥、惨殺されるアンナを見殺しにする。彼は妻との間にも情愛はない。愛情不感症みたいな男で、ファシズムがどうの、国家がどうのと言ったところでとどのつまりご都合主義にすぎないのだ▼妻のサンドレッリが妖艶だ。夫がいい加減な男であることに気がついているが、職業はとにもかくにも大学の哲学教授だし、ぎゅうぎゅう締め上げるより知らんふりしているほうが自分はやりやすい。マルチェロとは回遊魚みたいなもので金をかせぐ能力もないから、裕福な実家のある自分に逆らうはずがないとわかっている。イノセントを装っているが非常に賢い俗物なのである。マルチェロは自分が射殺したと信じていた士官が生きているのをみて驚愕。「順応者」を装って「異常者」である自分をカモフラージュしていた根拠は粉砕。あの暗殺はなんだったのか。足元にぽっかり深淵が口をあけ彼を吸い込んでいく。みごとなほどのアイデンティティの崩壊ですね▼公開当時から有名なのがドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリが踊るダンスのシーン。アンナはここでは女メフィストで男も誘惑し女も誘惑する。マルチェロとはできちゃうのですが食前食後のセックスみたいにあっさりしている。ベッドにこしかけたジュリアのむきだしの脚のあいだにアンナは顔を埋めていきますが、監督はだからといってこのシーンにことさらサウンドをいれる(ジョルジュ・ドルリューの音楽はすばらしいのに)とかしてムードを盛り上げるわけではない。こういう編集をみていると、ベルトリッチというのは二項対立(たとえば男と女、善と悪、昼と夜とか)をまるっきり信用していない、というかそういう考え方が嫌いなのじゃないか。現実の人間はそんなところで生きていない、カテゴライズできないアイデンティティというか、二項が対立する境界線(たとえば男と女の境界線)にこそドラマは息づくのだ、それが普通の現実なのだという考え方を、すでに半世紀前に映画にしていたのではないかという気がする。