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シネマ365日

2013年6月4日

スプレンドール (1989年 社会派映画)

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監督 エットーラ・スコラ
出演 マルチェロ・マストロヤンニ/マリナ・ブラディ/マッシモ・トロイージ

映画とは夢じゃないのか

 映画館とは昔あったひとつの場所。日常の時間から切り離された自分だけの心の劇場が幕をあける秘密の場所。愛があり詩があり夢があり、そこが文化だった場所。息をひそめ胸が期待でふくらみさびしさを忘れ、生きる力さえ与えてくれる場所だった。この映画の奇跡としか言いようのないラストシーンは、監督のやりすぎだとかできすぎだとか甘すぎるとか、言えば言えるだろう。しかし監督はエットーラ・スコラである。彼の「特別な一日」のようなシリアスで辛い作品がいっぽうにあることを知れば、本作は彼が吐息のようにもらした一編の詩だ。映画を上映し観客に提供してきた映画館主とそこで働く映画好き(というより映画狂か)の仲間。映画をこよない楽しみとし、生活の疲れを洗い笑顔と安らぎを取り戻す場所として、映画館「スプレンドール座」を愛してきた人々。もうこれはごちゃごちゃ書くより一度でいいからこの映画をみたら感動がわかる、としかいいようのない「思い」がつまっている映画だ▼冒頭のシーンがいい。巡回映画の時代だ。父親と小さな息子がトラックにフィルムを積んで村に着く。息子は手製のメガフォンで「今夜何時から広場で映画を上映します、無料です」といいながら村を巡る。大きく張った二本の柱の間に白い幕をはったのがスクリーンだ。子供が椅子をもって現れちょこんとスクリーンの最前列に座る(これはひょっとして息子ではないか)。つぎつぎ村人が自分で椅子をもってやってきて映画が始まる。日が暮れると夜着が要るような季節だ。台所仕事を終えた女房、赤ん坊を抱いた若い母親、鋤や鍬を納屋においてきた農夫や老爺が時々風に揺れてゆがむ白い布スクリーンの映像に食い入っている。映画への素朴なあこがれを映す叙情詩のようなオープニングだ▼現代。ここスプレンドール座は経営不振のため閉館がきまり看板が取り外されている。館主ジョルジュ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、第二次世界大戦後無事帰郷して、父親からこの映画館をひきつぎ、以来30年映画とともに過ごしてきた。彼と苦楽をともにしてきたのは映写技師のルイジ(マッシモ・トロイージ)と案内嬢のシャルタル(マリナ・ブラディ)だ。シャルタルは若き日のジョルジュが踊り子だった彼女を拉致同様ひきぬき、ルイジは最初シャルタルを口説くのが目当てで映画館に通っていたが、やがて映画にとりつかれ上映技術を覚えて映写室を心のふるさと同様にしてしまった男▼スプレンドールにくる観客たちがいい。老年にさしかかったおじさんが映画館に来た。久しぶりだった。母親とトト(イタリアの喜劇王)の映画を観にきたが母親が亡くなってから映画館から遠ざかった「母を失って初めて孤独というものを知った」何気ないセリフに彼の人生と映画と母親の結びつきが語られる。このとき上映している映画がベルイマンの「野いちご」だ。老年の孤独とみずみずしい愛の映画である▼テレビが普及し刺激の強いバイオレンス的な映画が人気を集め、ジョルジュらが愛する「映画好きの映画」はだんだん客足が離れていく。なにしろ「007」大人気のときにスプレンドール座は「ネオ・リアリズモ特集」をやっているのだ。借金はかさむ。ルイジはカフェでコーヒーを飲みながら「こんなにたくさん人がいるのに、どうして映画を見にこないのだ」と首をひねる。満員だった館内はいまやお客さんが6人。ジョルジュは叫ぶ「そのうち有料は3人だ。あとの3人はおれとルイジとシャルタルだ」彼は思い切って休憩時間にストリップをやると決めたがやっぱりやめる。このへんの良識と知性ゆえの優柔不断をやらせてマストロヤンニの右に出る役者はいない▼時代の波に流されようとする映画と映画館の前に、仲のいい映画批評家が「テレビ批評に転身を勧められている。たぶんそっちのほうで書くと思う」とジョルジュに打ち明ける。ルイジも弱音を吐く。ジョルジュはいう「無気力な映画批評家も映画狂の映写技術師も消えろ。映画というのものがわからなくなったって? 君が映画をわかったことなど一度もない。30年間2列目に陣取って映画通を気取っていただけだ」「それが悪いかい?」「観客のことをわかっていない。彼らがなぜ映画を見に来るのか、映画になにを求めているのか、君らは無関心だ」ここで監督はジョルジュにあえて答えを言わせていません。観客はなぜ映画を見に来るのか、その答えは観客のみなさんのものですという監督のメッセージです。劇中映画史のレジュメともいえる名画が上映されます。冒頭の「メトロポリス」(1926 フリッツ・ヤング監督)「ミラノの奇跡」(1951 ヴィットリオ・デ・シーカ)「野いちご」(1957 イングマル・ベルイマン)ほか「アルジェの戦い」(ジッロ・ポンテコルヴァ)「プレイタイム」(ジャック・タチ)「アメリカの夜」(フランソワ・トリュフォー)「フェリーニのアマルコルド」そしてラストはフランク・キャプラの「素晴らしき哉人生」。閉館作業が進むスプレンドール座で、最後の観客席の椅子の撤去がはじまろうとしたとき、一人のおじさん(シャルタルが好きで30年間映画館に通っている男性)がつかつかと入ってきて、ドシンと椅子に腰をおろす。てこでも動かない顔だ。作業員があっけにとられていると、二人、三人と客が入ってきてつぎつぎ席を占める。おじさんもおばさんも若い男も女も、爺ちゃんも婆ちゃんもやってきてすわりこみ椅子をどけさせない。立ち見客も鈴なりだ。映画館を壊させない…無言の座り込みに新オーナーは計画を放擲する。たしかに夢だ。こんなものは所詮夢だ。しかし映画とは夢じゃないのか。監督の回答がここにあります。

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