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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2013年11月6日

特集 LGBT-映画にみるゲイ 中国の植物学者の娘たち(下)(2005年 ゲイ映画)

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監督 ダイ・シージエ
出演 リー・シャオラン/ミレーヌ・ジャンパノイ/リン・トンフー

彼女たちのために

 映画化が実現したのはセックスの露骨な描写がなかったからだろうと、主演のリー・シャオランがインタビューで答えていた。この映画のヒロインふたりのラブシーンは抑制的で静的だ。もともと扇情的という言葉からほど遠く、抒情詩のような映画をつくるのがダイ・シージエ監督だけど。あの戦闘的な女性理論の教組的存在、リュス・イリガライに「わたしたちの唇が語りあうとき」という、思いもよらぬなまめかしい独白がある。イリガライの論旨を簡単に述べるなら、当時(1970年代)アメリカ女性運動の理論家たちが、フロイトによって受動と固定された女のセクシュアリティを、膣よりもクリトリス重視論で展開していたのに対し、イリガライは外陰唇の構造に着目、女は快楽のために媒介を必要としない、とフロイトの男根主義をバッサリ、女のセクシュアリティの自体愛を肯定的に導いた。目が覚めるような論壇への登場でした▼話が理屈っぽくならないうちに急いで言うと、この「わたしたちの唇」に、詩のような表現を与えた小説に村田喜代子氏の「雲南の妻」がある。もし本作を見なかったら思い出さなかったかもしれない地味な、でも透き通った作品であることはこの映画と同じだ。女性が妻を娶ることがあるという雲南の少数民族のならいに従い「わたし」は美しい雲南の娘、英姫(インジ)と結婚する。「植物学者の娘たち」の影の主人公ともいえる植物園にも見ることができるが、雲南という熱帯に近い土地の植物は、緑の髪を振り乱したように猛々しく、植物というより獣のような激しいパワーを持っている。「わたし」はビンロウの木の血のように赤い実に、妖しくそそのかされたようにインジの求愛を受け入れる。さて女ふたりが婚礼の床に就いたのであるが「だいてあげるわ」やさしく言った「わたし」は、文字通り「だいて」あげたもののそのつぎがわからない。しまいに「いったいどうしたらいいの」とインジに尋ねる。インジは「わたし」の腕のなかで無言で考えるふうだったが「あなたはわたしです、わたしはあなたです、あなたのしてほしいことをわたしがします。わたしのしてほしいことをあなたがします」。「わたし」はインジの呪文のような言葉に導かれふたりはひとりに溶け合う。それは「わたしとインジがやったのは愛撫以上のものではなく性交の達成感とは無縁の交情だった。(略)。男と寝るのはまさしく体と体の結合で、女同士が寝るということはもっと形のない、神経とか精神とかいうものの形のない交歓だ。まるで植物の茎と茎が細い舌先でこすれ合うような抱擁…。快感の種類がまったく違う」ま、どう考えてもハリウッド的「ドスンバタン」とは縁のない本作でした▼そうそう。ピュアな映画だと言ったけれど、ほんとにそうだと思います。いちばん印象的だったのは、婚礼の席でアンがリーと踊るシーン。せっかくの祝宴の席だからと歌を歌う父親は、浮かない顔をしている娘の手を取り踊るのだが、アンはとりとめのない作り笑いを浮かべるだけ。やれやれやっと終わったわと、アンは父親の手をすりぬけ花嫁リーに近づく。このときの、緊張とつらさと、悲しさのまじる思いつめたアンの表情が一、二秒だけどスクリーンの隅っこに映ります。アンが中央に進み、リーに左手をさしだしたときは祝宴用の笑顔になっていますが、式のあとに続く初夜を考えるとアンは胸がしめつけられているわけ。だれのものでもない自分だけのリーをだきしめるのに、残されたときはいまだけか。純粋なまるで透き通ったような愛情とは、その人を幸福にするとは限らないのかも。そう思わせるほどアンの切なさが際立っていました▼「中国の植物学者の娘たち」から発信された「愛する自由」への希求は計り知れない感動を伴いました。たとえ同性愛が中国でタブーになっている問題であろうとなかろうと、主演のリー・シャオランは「出演に抵抗を感じなかったか」というインタビューに「(自分が)勇敢だといわれるまで何が問題なのかわからなかった」と簡単に答え「4、5年もすれば中国でもあれこれいわれることはなくなる」と、若い世代の明晰な感性で回答しています。本作の撮影は2005年2月23日、ハノイで始まっていました。それに先立つ一年前のアメリカ。2004年1月18日放映が開始された番組があります。それまで扉の中で演じられていたゲイの世界を一変させ、ロスアンゼルスの青空のもと、知性的な女たちが仕事で、職場で、コミュニティで、普段着で繰り広げるゲイの明るさとまぶしさは世間をあっといわせました。ゲイは真昼の日常社会の主役に登場したのです。「Lの世界」でした。哀切にみちた「中国の植学者の娘たち」と、対極にある「Lの世界」の二作が放つメッセージの豊かさは、長い過酷な時間をかけて彼女らがたどりついた「愛する自由」そのもののように思えます。

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