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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2013年11月10日

特集 LGBT-映画にみるゲイ オルランド(上)(1992年 ゲイ映画)

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監督 サリー・ポッター
出演 ティルダ・スウィントン

危険な女 

 原作者のヴァージニア・ウルフが文学史上最長のラブレターを書いたというのが本作ですが、ラブレターはもうひとつあります。「燈台へ」だと思うのです。これはウルフの青春の総括であり、母親へのラブレターでした。ヒロインがラストで「ミセス・ラムジイ」とよびかけ「とうとうわたしはわたしのビジョンをつかんだわ」という箇所は、13歳のとき死に別れた母親への思慕と、それを乗り越えた文学上の達成感を感じます。ウルフに関連した映画といえば「めぐりあう時間たち」がありました。いい映画でしたけど、ちょっと腑に落ちなかったのは、ウルフは確かに繊細で鋭敏な感性の持ち主でしたけど、それだけではなかった。「わたしだけの部屋」にあるいらだちや嘲笑、侮蔑は攻撃的で破壊力を秘めています。それに「めぐりあう」のモティーフは「ダロウェイ夫人」ですが、同作のなかでぶちまけている精神科医への憎悪ともいえる反感はすさまじく、これじゃ夫のレナードが医者に見せようとしてもまずムリだったでしょう。ウルフ夫妻は1938年、ロンドンに亡命したフロイトを訪問しています。レナードはフロイトの控えめだが力強い態度に感銘を受けたと自伝に書いていますが、ウルフはフロイトから花を捧げられたにもかかわらず、公開されている限りの日記ではそれに触れていません。めずらしいことです。そんなことを考えると「めぐりあう」の中でも、もっと強靭なウルフがいてもおかしくなかったと思えました▼「ダロウェイ夫人」は「めぐりあう」にあるように1923年、リッチモンドで書き始められました。劇中のウルフは終始憂いに沈んでいます。精神科医の神谷美恵子氏は「ヴァージニア・ウルフ研究」で「鋭い知性と感性と〈性悪さ〉をウルフはおそらく母以上にもっていたであろう」とウルフの複雑さを指摘し、人一倍無邪気な笑いのある世界にあこがれていた例証をあげています。ウルフの女性に、それも年長の女性に甘える傾向は赤ん坊じみていて、姉のヴァネッサには一生甘えっぱなしでした。詩人のヴィタ・サックヴィル=ウェストはウルフとふたりだけでフランスに旅したときは、夫への手紙によれば「わたしは彼女に対してひどく保護者的に感じてしまうのです。あのすばらしい頭脳と、あの弱々しいからだの組み合わせは大変すばらしい。彼女の性質はかわいらしくてこどもっぽく、その知性とまったく別になっているようです」▼さてヴィタにふれたところでそろそろ「オルランド」に入ります。ウルフが初めてヴィタに会ったのは1922年の12月でした。そのうちひんぱんに日記にヴィタが登場するようになる。ヴィタはサックヴィルの男爵家の娘。外交官に嫁いだが女性であるため家督の相続が認められなかった。この事実が「オルランド」の骨子にあります。ウルフは日記にこう書いている。「1500年に始まって現在まで続く伝記で、その名はオルランド。ヴィタ。一つの性から他の性へと変わることだけちがえる。楽しみのために一週間このことに自分を没頭させようと思う」嵐のように「オルランド」は書き始められたわけ▼ウルフは最初ヴィタにかなりの抵抗があったように少なくとも日記では受け取れます。「美しく天賦の才のあるサックヴィル=ウェストにあったとき、わたしのやかましい好みにはあわないー血色がよく口ひげがあり、インコのように彩られ、貴族のしなやかな気軽さはありながら芸術家の機知がない」ボロクソですね。後年「ヴァージニア・ウルフ伝」で、叔母のセクシュアリティまで踏み込んで書いたウルフの甥、クウェンティ・ベルは同著でこう分析しています「ヴァージニアはすこしおびえていたのだと思う。ヴィタといっしょにいると彼女はほとんど生娘のようにはにかんだ。彼女は最初の出会いでヴィタの気持ちに気づいたであろうし、ひょっとして自分自身の気持ちも薄々知ったかもしれない。彼女は危険の意識を呼び起こされたと思う。彼女はレナードを愛していた。しかし中年になって(ウルフは40歳、ヴィタは10歳年下だった)他の誰かが彼女に愛情の場所を要求するとしたらなにか恐ろしいものをもたらさないか。だから彼女はヴィタの魅力に冷ややかで敵意さえ示すことが必要だった」。ヴィタはウルフが自分たちの愛情を文学的題材として考えている、下心があってつきあっているのだといって非難します。「本当にあなたという人は愛情より頭で人を好きになるのですから」ウルフはこの非難を断固退けましたが、まあ充分そういうところはあったにちがいない。ちがいないがヴィタのことを書くときは、完全に恋する女性としかいいようがない。「わたしは彼女といっしょにいることが、あの堂々としたところが好きだ(略)、ともかく彼女は私の服装が途方もなくむさ苦しいと考えた。これほど身なりを考えない女はいない、だれも私のような服の着方をした者はいない、それでいてこんなに美しい、等々。彼女には成熟がある。しかも豊かな胸をしている。彼女は満潮に満帆を思い切り張っており、私はよどみを岸に沿って進んでいる」。ヴィタに対する恋情とともにウルフのナルシズムがよくわかります。ヴィタのことをあまりよく思っていないヴァネッサ(姉)には「ヴィタが私と二人だけで二晩すごすためにここへ着ます。そしてレナードは帰るところです。もうこれ以上は申しません。あなたはヴィタにうんざりし、愛にうんざりし、私に、私に関係ある一切のことにうんざりしているのですから。しかしこういうのがずっと私の運命なのです。そして目を見開いてそれにぶつかるのがいいのです。それでも6月の夜は長くて暖かい。ばらは花ひらき、庭はアスパラガスの床で入り交じる欲望と蜜蜂に満ちている」ウルフはときどき意味不明な動物のたとえを言います。ヴィタとけんかしたときはマムシの尻尾とか。ここでもなんで危ない蜜蜂がいるのかわかりませんが、たぶん蜜蜂の低い連続的な羽音がいやましに欲望をかきたてているのでしょう。むせるように官能的です。ヴィタは長身の細面の、どこかウルフに似た印象のユニセックスを思わせる美貌でした。危険を感じたウルフは冷ややかに敵意さえ示しましたが、あまり効果はあったように思えませんね。

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