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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2013年11月18日

特集 LGBT-映画にみるゲイ 夜の子供たち(1997年 ゲイ映画)

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監督 アンドレ・テシネ
出演 カトリーヌ・ドヌーブ/ダニエル・オートイユ/ブノワ・マジメル

ドヌーブの大胆不敵

 「夜の子供たち」は原題「泥棒たち」。ムードのかけらもないタイトルを、思わせぶりな邦題にしたのは、担当者もきっとテシネの、どっちがアタマか尻尾かわからないような、人を混乱させて面白がる毒気に中ったからだろう。彼の映画には説明がないから取り付く島がないの。勇を奮って「夜の子供たち」を選んだのは、カトリーヌ・ドヌーブが「あー。やっぱり」というか、女に対する女の欲望を大胆不敵なまでに演じていたからだ。もともと彼女はLGBTフレンドリーだ(※LGBT=レスビアン・ゲイ・バイ・トランスジェンダー)。なにごとも前向きなスーザン・サランドンは「ドヌーブと寝るとなって断る人がいる?」と特に前向きになって「ハンガー」のベッドシーンに挑んだ。受けて立ったドヌーブだってかなりのものだった▼家族という一種の閉鎖空間を設定したうえで、テシネは複雑な関係を緻密に織り上げていくことが多い。本作もそれにもれず「泥棒一家」に生まれ、家族への反発から刑事になり、それによってさらに家族と対立関係をつくる男アレックス(ダニエル・オートイユ)と、その情婦の不良娘ジュリエット、ジュリエットの恋人マリー(カトリーヌ・ドヌーブ)、ジュリエットの兄ジミー(ブノワ・マジメル)は車の窃盗団の一員で、アレックスの兄が経営するクラブを任されている。泥棒家族に関係ないのがマリーだ。彼女は大学の哲学科教授で、ジュリエットは彼女の講義を聴講しにきた学生だった。ドヌーブは「ジュリエットのことが好き。わたし昔は結婚もしていたし孫もいるのよ」という立場である。彼女らの前後関係はスッパリ削除され、現在マリーとジュリエットが恋人同士で、ジュリエットはマリーの部屋にしょっちゅう来て、マリーが食事に行こうと誘うと「こんな暑い日にイヤよ、外に出るの。家の中でもっといいことをしようよ」…そんな日々のなか、セックス以外に二人でできる仕事をもちたいとジュリエットが言い、マリーはジュリエットの半生記を書くことにする。ジュリエットはマリーのインタビューに答えるという形で執筆は進んでいた▼車の窃盗計画にしくじり長男は現場で警備員に殺された。窃盗団の一員として参加したジュリエットは警備員を射殺してしまう。マリーの部屋にきて自殺を試みるが失敗、マリーは元夫の精神科医の病院にジュリエットを連れて行くが、ジミーが連れ出しマルセイユに高飛びさせる。マリーは大学をやめジュリエットの残したテープを聞きながら本を完成させたのち自殺する。アレックスとジュリエットが情事を続けていたとき、アレックスはたびたびジュリエットからマリーが好きだということを聞いていた。マリーのことが知りたくなりアレックスは近づく。ジュリエットがマルセイユに去ったあと、マリーはアレックスをオペラ座に誘い「魔笛」を聴く。アレックスは「ふられた者同士でオペラか。サイテーだな。君はずっとジュリエットを待ち続けるのか」「待ってなんかいないわ。彼女はもう私の人生の中にいるわ。寝るのも起きるのもいっしょよ」アレックスはジュリエットが「マルセイユの本屋で働いている」と教える。「彼女にとって、あなたやわたしはもういないほうがいいわね」「年相応の相手をみつけるさ」「あの子はなんでも表面だけ」「病気さ」マリーがジュリエットのことばかり言うので「またか。他の話題はないのか」アレックスはマリーが好きで、彼女が酔っ払って眠り込んだ寝顔を写真に撮り、自分の部屋に飾っている。「マルセイユに行けよ。ジュリエットと会って話せよ」マリーは「魔笛」の中の一節を引く。「暗闇のなか、愛の存在を問うと遠くからかすかに答えがある、信じられないけど、存在すると」翌日マリーは自殺し、本の原稿とテープがアレックスに届いた。アレックスは初めからマリーが自分にあてて書いていたのだと知る…▼ふうん。マリーの自殺が唐突だな。それに20歳やそこらで半生記を書くっていうのもよくわからん。原稿をアレックスに送った? ジュリエットは読書などと縁のない娘だとマリーは思っていたのよ。そのわりにはジュリエットの就職先が本屋ですって?▼恋敵だったマリーとアレックスの間に共鳴関係は芽生えたものの、マリーが自殺したというのはどういうこと? 早い話女との愛に絶望したからでしょ。この映画ではジュリエットと共に生きた「愛の暮らし」を自己完結のなかに凍結したことになっているが、それがそもそもおかしいだろ。マリーは大学教授という社会的に安定した職にあり、ジュリエットひとりを居候させるくらいの経済力もある。女がそこまで力をつけるにはどんな苦労があったと思うのよ。ポイとあきらめてさっさと死ぬか? だいいちジュリエットがアバズレだとわかっていてマリーは愛するわけでしょう。そんな女が高飛びしたくらいで「彼女はもうわたしの人生の中にいる」なんて、いくら哲学の先生でも飛びすぎじゃないの。あいつめ、ほとぼりさめたら帰ってくるわ、のほうがより現実的な解釈だと思うけど。ドヌーブも同じテシネ監督で撮った「夜を殺した女」のほうが、繊細なくせにふてぶてしい、単純なくせに複雑という女の二重性がよく出ていた。本作ではテシネの、というより男の観念好きがマリーという女を薄っぺらにしている。結婚し孫もいる、いわば世間的な女の実務を全部済ませ、母だの妻だのという役割を外した自分だけの人生を充実させたい、そう思ったうえでマリーが愛したのが女だった。人生なんでも当たり外れがある。マリーの年齢ならそれくらいわかる。愛した女がハズレだったことは悲しいけどわかったはずだ。愛人が高飛びするたび窓から飛び降りるか? そんなことをしていた日には、命はいくつあっても足りないだろ。

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