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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2013年11月20日

特集 LGBT-映画にみるゲイ ショートバス(2006年 ゲイ映画)

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監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演 スックイン・リー/リンゼイ・ビーミッシュ/ジャスティン・ボンド

愛撫のはかなさ

 「女のセックスはひとつではない」と言ったのはリュス・イリガライだった。博士論文「検鏡、他者としての女」で衝撃的なデビューを果たした彼女は、世界思想史・文学史上、男が築いてきた哲学や学問がすべからく「女不在」のものであったと一刀両断、目を見張るラディカルな論陣を展開してきた。容貌からしてシャープである。なんで「ショートバス」を見ながらイリガライを思い出したのかわからないが、この映画の冒頭から延々続くシーンが、女のセックスの多様性にふと結びついたのかもしれない。ポルノチックな映像に辟易しながらも、まあ監督がジョン・キャメロン・ミッチェルだから、と我慢してみていた。ミッチェルはむろん「へドウィク・アンド・アングリーインチ」や「ラビット・ホール」のミッチェルだ。若い男性が風呂に入り、つぎにベッドに横たわりオナニーに耽る。それをビデオに記録する。夫のセックスでオーガズムを経験したことのないカップル・カウンセラーのソフィ(スックイン・リー)は、カメラの前でバイブを押し当てる。彼女の夫で無職のロブはエロサイトをみて興奮する。恋人同士のジェイミーとジェイムズは、パートナーに対する性的関係を広げようと、コンサルタントのソフィのところへいくが、逆にソフィは自分がオーガズムに達しない悩みを打ち開け、ふたりから「ショートバス」を紹介される。そこは男でも女でも性差なくだれもが、思い思いのセックスを求めることができるサロンだった。ここでくりひろげられる集団セックスシーン、ボカシこそ入っているけど絶対本番よ▼あまりの迫力におどおどと行き場のなかったソフィは、SMの女王セヴリン(リンゼイ・ビーミッシュ)に話を聞いてもらう。セヴリンはグランド・ゼロを見下ろすマンションでSMクラブを営んでいるが、いつも満たされない寂しさを抱えていた。ソフィが覗いた部屋のひとつではレスビアン・グループが話したり抱き合ったりしていた。ソフィに気づいた一人が手招きする。こわごわ近づいていったソフィの告白を女たちは落ち着いて聞く。ジェイミーとジェイムズのカップルに憧れる青年がいた。彼らはトリプル・プレイで親密度を高め、悔いを抱いて生きてきた元ニューヨーク市長は青年に心の中を打ち明ける。「ショートバス」のオーナーはドラグ・クイーンで有名なジャスティン・ボンド(本人)だ。集団セックスを見ながら「60年代みたいね」という彼はまるで性の「もののけ姫」である。彼もまたソフィの悩みを吸い取り紙のように吸収してやる。妻が自分を傷つけまいとイッた振りをしていることをロブは知っていて、そんな自分を罰するようにムチで打つ▼映画がこのあたりにくると、最初にあった辟易感がいつのまにか消え、一種の調和が映画に現れているのに気づく。みなやさしい。彼らのセックスは愛される肉体のもろさと強さ、愛撫する手の、指の、皮膚と皮膚の温かさと冷たさ、歓びとはかなさを交感する。寂しさもやさしさも、いたわりもおしつけない。励ましも涙もない。ただ黙って受け入れる。だれも嘲笑せずだれも否定しない。彼らはセックスを求めてここにきているのではなく、ここにいれば自分だけではないとわかるなにかが確かめられるのだ。絶望や怒りや孤独や疎外感をかかえている人たちが、観念でなく肌で触れて確かめられる温かいもの。受容することや認め合うことで人は自尊心を取り戻し、冷静さを回復し、本来の知性と愛情をわかちあえるのではないか。映画には高らかな「ミッチェル節」が鳴り響きます。エンディングでジャスティン・ボンドが歌う「In The End」がいいですね。「人は臨終の床で気がつく/心の悪魔こそ最良の友と/だれもが最後にはそうと知る」…▼「ショートバス」とは普通の乗合バスやスクールバスではなく、障がい者やケアが必要な子供たちを乗せる、車体の小さな黄色いバスのことです。それがサロンの名前になっています。それとニューヨークの街のジオラマを、メルヘンティックなアニメで構成したのがジョン・ベア。オープニングと、エンディングのバックに映されますね。停電したニューヨークの市街にいちばんさきに灯る灯りが「ショートバス」でした。監督が送った「心の灯り」のメッセージがしっかり受け止められると思います。

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