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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2014年3月20日

特集 LGBT-映画にみるゲイ63
ジェニファーズ・ボディ(下)(2009年 ゲイ映画)

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監督 カリン・クマサ
出演 ミーガン・フォックス/アマンダ・セイフライド

ノラの末裔

面白かったと本作の(上)で書いたけど、どこが面白かったのかと考えてみると、クラシックな中身に新しい衣装を着せたところだと思う。ジェニファーは悪魔憑きになっちゃうのね。もともと跳ね返りで、人のいうことなんかひとつも聞かない娘です。ニーディはうってかわって従順で、ジェニファーのいうこと、なすことについてくる。いきなりですが「人形の家」のヒロインのノラね。彼女は家を出てしまうのだけど、そのあとどうなるのだろ。なぜノラが新しかったのか。女は家の外へ出て、生きる欲望を実現してもいいのだという可能性を示したからだと思うのよ。女は結婚するのが幸福であるというステレオタイプが社会的な、ほとんど制度といえる概念でつくりあげられ、一生家事と育児に従事する。そこでは女のセクシュアリティは生殖と欲望は一対のものとなっていた。結婚してセックスして子供をつくって立派に育て上げるというフルコースですね。女性の身体の機能としてはもちろん文句はないけど、それしかない、そこからはみ出そうとする女の自我を、社会が認めなかったというのが問題なのよ。結婚嫌いの女だっているし家事が苦手な女もいるし、それ以外のことに向いている女もいる、自分の好きなことに力を尽くしたいと思う女がいくらだっていたでしょうに「家」という縛りから脱出しようなんて、嫁の風上にもおけないとされた。しかし…女が仕事をもちさえすれば、自我を追求したいという、思う存分に生きたいという、その欲望は叶えられるのか。ノラが家をでたのは仕事をもって家計の所得をふやしたいという願望ではなかったと思う。ノラが脱出したかったのは「家」が代表する、当時の文化や制度によってレッテルを貼られていた、女に対する考え方や見方からでしょう▼家から出た女に社会はどんな扱いと待遇を与えてきたか。文学史に跡をとどめるそれを、水田宗子氏は自著「二十世紀の女性表現」のなかの「異類」というくくりで、ジェンダーを論じておられる。卓抜な、と評するのさえおこがましい、目からうろこの論評だった。自我を主張するような女を生かしておけば、いつまた男社会を撹乱するか知れないから、そんな女は犯罪者か魔女か、精神病か変態か、社会から逸脱した者とみなされ、隔離されるか火ぶりになるか、小説や映画のなかであればホイホイ自殺させられてしまうか、病院か刑務所送りか、狐憑き女か山姥か、要するにだれもなりたがらない存在をつくりあげ、こいつらを相手にしてはいけないと教えこまれた。氏のいう悪女とは「自分の欲するものを女としてのセクシュアリティを駆使して男から獲得しようとする女」だった。まったく賛成だわ。あるものを使わないでどうするのよ。しかし悪女とは女だけでなれるものではないと氏は指摘する。自分の欲するなにかを持っている男がいないと女は悪女になれない。悪女を悪女足らしめる男がいないと、凡庸な男にみあう凡庸な女がいるだけのところに落ち着く。だから悪女っていうのは、なろうと思って(なりたいと思うかどうかはさておき)なれるものではなく、才能と運命が必要らしいのだ▼「ジェニファーズ・ボディ」で、男を翻弄するジェニファーは、男のサクセスの生贄としてナイフでめった刺しされ、社会から抹殺処分の対象である悪魔になった。ここまではおきまり通りですね。おもしろいのは生真面目なニーディは本来なら通常の常識ある女性として、良妻賢母のつつがない一生を送るはずだった。ところがクマサ監督はこのニーディにジェニファーの血を受け継がせちゃう。おとなしかったニーディを、自我を張る女に変身させ社会の逸脱者にしてしまう。ジェニファーをあんな目にあわせ人生を狂わせた奴ら、けしからん、生かしておけないとニーディは復讐の女神と化します。それだけなら女が反旗を翻す定番コースなのだけど、どこが新しいかというと、やっぱりアマンダとミーガン・フォックスという生きのいいトレトレの素材で仕立て直したところだろうな。女優ふたりが暴れまわっています。お固いニーディがジェニファーに引きずり込まれ、濃厚なキスをかわし、我にかえってとびあがるところはユーモラスでさえある。監督がニーディとジェニファーをゲイの関係と設定したのはなぜか。ゲイとは生殖する、子供を産むセクシュアリティを武器にしない女たちですからね。ジェニファーも通常社会からはみ出している性格のため運命を狂わせ、ニーディは規制社会からの逸脱者としての人生を、ノラの末裔たる人生を選びます。彼女はうそぶきます「わたしは悪魔の血を受けた。みじめな人生とはおわかれよ」つまり監督は悪魔の分身になるとはサクセスへのグリーンパスだとしているわけ。メフィストフェレスのささやきに、いくらでも耳をかしてやるぜ…わからんでもないですね。やりたいことをやるためなら、目的遂行のためなら悪魔に魂を売ったのはファウストでしたが、ファウストとは呪われたほどになにかをクリエイトしたいと欲望する、人類の潜在意識をゲーテが顕在化させた劇でした。

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