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シネマ365日

2014年4月21日

皆殺しの天使 (1962年 ファンタジー映画)

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監督 ルイス・ブニュエル
出演 エンリケ・ランバロ/ルシー・ギャラルド

想念の連鎖

 「すぎゆくものは象徴にすぎない」と言ったのは万物を知り尽くしたファウスト博士だった。ルイス・ブニュエルは処女作「アンダルシアの犬」でみせたように、夢を現実に、現実を夢にという転換が好きで、意味と無意味、現実と非現実、日常と非日常の境界を映画にしてきた。映画にするとはもちろん目に見える映像にすることだ。こんなわかりきったことをことさら言わねばならないほど、ブニュエルは想念とか幻想とか、妄想とか、本来なら頭のなかでくりひろげられる劇を映像にするのが大好きだ。それをものすごい腕力によってするのでもなく、無理やりの強制でさせられるのでもなく、嬉々として遊んでいる感覚が、この監督をとびきりユニークにしている▼「皆殺しの天使」で用いられた転換の発想は「時間」だろう。入れ子構造になった現在と脱現在がまことしやかに組み合わされて、屋敷に閉じこめられたゲストたちが脱出に向かうシーンは、ブニュエルの最高の「おふざけ」のひとつだろう。例えば、なにかわからないがぎっしり詰まった行李のふたをとり(これはなんだろう、これはなんだろうと)ときれいでも重要でもない品物をひとつひとつ引き出し、目の前にかかげて品定めをする、ばかばかしいものばかりだが、ひとつひとつに記憶や過去が、まるで妖怪やお化けの分身みたいになってぎゅうぎゅう詰めこまれており、つぎの品をつい指で持ち上げずにはおれない。ブニュエルの豊穣とは、一言でいえばそんなひとりよがりの快楽の遊びだ。そもそも淫靡である。彼は「皆殺しの天使」というタイトルにひかれたらしい。出典は「ヨハネ黙示録」で、神から権限を与えられた天使が、皆殺しできる役割を持つ、そんなことだったと思うが、ブニュエルは「無意味」という「皆殺しの天使」をみつけて「意味」を皆殺しにするためこの映画をつくったのではあるまいか。ブニュエルは自分の「おふざけ」のゲーム感覚を隠蔽するために、わざとリアルなセリフで膜を張る。劇中の羊やクマがなぜそこにいるのか意味がないように、登場した人物たちはみごとに「すぎゆく象徴」にすぎず、皆殺しの天使によって無意味という意匠に変えられてしまった▼オペラの観劇のあと高級住宅街にあるノビレ(エンリケ・ランバロ)の屋敷によることになった20人の客たち。妻のルシア(ルシー・ギャラルド)は台所に様子をみに行くと召使たちがどこかへでかけようとしている。きけば料理女たちはとっくに出て行ったというのだ。いまからパーティーなのにとんでもない、とルシアは怒るが、あとは料理を並べたらいいだけだ、それは執事のフリオがやってくれるといって召使たちはさっさと退場する。食事は無事おわりゲストたちは客間に集まった。このあたりから客達は奇妙なふるまいをみせるようになる。灰皿をなげつけて窓ガラスを割るレティシア、ガンを患うレオノーラに医師は「あと三ヶ月で彼女はハゲになる」と告げる。クリスティアナはバッグから鶏の脚を取り出す。ブランカは演奏をリクエストされて断る。午前4時になったがだれも帰らない。客間のあちこちに雑魚寝することになった▼2日目。フリオは食材がまだ届かないので朝食の用意ができないとルシアに言う。ありあわせのもので作りまにあわせたが、だれも帰ろうとしない。セックスしたらしい女に「乱れた顔も素敵だね」といったり、「食堂でなくなぜ客間に朝食を運んだ」とフリオを問い詰める客がいたり、「学校に通う子供がいるから帰らないと」と言いながら腰をあげない婦人とか、そんなときルシアが昏睡状態になりフリオがへなへなとへたりこむ。夜の7時になると水もなくなる。街中が全滅したようにだれひとり屋敷にこないのだ▼ところが屋敷の外では異変に気づいて警察や住民が門を取り囲んでいたがだれも中にはいれない。中でなにかが起こっていると警官はいうが、強行突破することもしない。客間ではフリオは空腹のため紙を食いだし、女たちは花瓶の水を飲む。水道管を破り水が出た。髪の梳かし方が気に入らないとか、無礼な言い方をしたとか、家の中では飢えと狂気が生じる。これは悲惨な結末を迎えるとだれかがいうが、だれも動かない。心中する客がいれば、切り離された白い手首だけが走る妄想の女性客も現れた。台所のヤギは生贄にされたが、柱をよじ登るクマはだれも手が出ない。とうとうこうなったのはノビレがわれわれを誘ったからだ、彼を殺そうととんでもないことを言い出した。そこへレティシアが妙なことを言った。みんなきたときと同じ椅子やソファに座っている。時間を巻き戻せば(この通りには言わないが)わたしたちは外へ出られる。いくつかの動作をくりかえし、時計は午前3時だった。「そうよ、このときわたしは帰りたかったのよ」レティシアが叫び「帰ろう、帰ろう」とみな口々にいってドアに向かった▼生き残った客達は教会で感謝のミサを捧げる。ミサを終え神父たちが壇から降りるが扉の前で「信者たちが出た後にしますか」とかいってグズグズしている。教会の出口では出られないと騒ぎが起きている。鐘が鳴り響き警官隊が出動し、銃声と悲鳴がきこえ、羊の群れが教会に入っていった。この世には現実なんかない、現実の捉え方があるだけだ、しかもその捉え方は、愚かさによって性懲りもなく繰り返されるのだとブニュエルは言わんばかりだ。この映画がなんでカンヌ国際映画賞の大賞なのだろ。思うにみなさん、一見わけがわからないものが有難くみえるのね。だからブニュエルにつけこまれるのよ。ブニュエルおじさんって、柱をよじのぼっていたあのクマと同じよ。ひとりで機嫌よく遊んで、クマはあれよ、あれよ、みんなが見とれているうちにさっさと一番先に屋敷の外へ出ちゃったじゃないの。クマだけが正気だった。カンヌの審査員もブニュエルに見とれていたのね。ブニュエルだけが正気なのよ。

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