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シネマ365日

2014年5月6日

特集「料理の映画」 最後の晩餐/平和主義者の連続殺人 (1995年 コメディ映画)

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監督 ステーシー・タイトル
出演 キャメロン・ディアス/ロン・パールマン

料理と殺人の相似 

 タイトルこそ「最後の晩餐」だけど、料理には無関係の映画です。それなのになぜ「料理の映画」にいれたのかというと、本筋に関係ない料理が場違いなほど、きれいに撮れている。監督か撮影監督はよほど料理のセンスのいい人か、料理好きにちがいないと思ってしまう。もちろん具体的なメニューもレシピも説明されませんが、遠目とはいえきれいな盛り付け、テーブルの花や皿、フルコースみたいに何種類もありませんが、ナイフもフォークもきちんと並んでいる。水があり、ワインがあり、白だとか赤だとか、食卓の話題も的はずれでなく、それとこれが大事だと思うが、テーブルを囲んだ出演者らが、わりとおいしそうに食べる。いうなればメニューは平凡でも「食べる」雰囲気が悪くないのだ。内容といえばかなりグロテスクな、カルトティックな映画がそれほどばからしく映らないのは、料理とそれを食べるシーンのリアリズムに負うところが大きいと思うものだ▼時代と場所は1960年代初頭、右よりのレーガンやブッシュ政権が続いていたころのアイオワ州。共同生活する、左翼的な思想の大学院生5人。おりしも町では少女誘拐事件がおこり女性保安官が犯人探しに躍起となっている。テレビではタカ派の保守論客ノーマン(ロン・パールマン)が早口で保守的イデオローグをぶちまけている。そろそろ晩餐時だが仲間のひとりが帰ってこない、5人はいつも行動をともにしているらしく、待っていようとか、もう帰るだろうから先に飲み始めようかとかいっている。外は土砂降りだ。やっと帰ってきた彼はトラックで送ってくれた運転手を紹介する。折角だから食事をいっしょにという誘いを受け、運転手はディナーの席につく。湾岸戦争の帰還兵である彼は「君ら大学院生は理屈ばかりで戦争を知らない、リベラルを気取る君たちの行動はヘドが出る」と露骨に軽蔑する。学生たちも負けていない。戦争、戦争というがほとんどはコンピュータの画面上で処理される映像をみるだけだろう、ゲーム感覚じゃないか、えらそうに言うな。だれが料理したのか明らかにされないが、パンやらきれいに焦げ目のついた揚げ料理の皿が回され「どうぞ、どうぞ」「ありがとう」と言っていたなごやかな食事の席は険悪に。帰還兵が「ヒトラーを尊敬する、ナチは必要だった、ユダヤ人は金をむしりとるばかりだ」と言い始めるにいたっては暗雲が垂れ込め、さすがにひとりが「君、雨もあがったようだからもう帰ったほうがいいよ」それでも帰還兵はエスカレートし、ナイフで刺殺される▼最初の殺人をきっかけにして「保守のやつらは許せない」とカルト集団になった彼らは標的を晩餐に招待し毒殺していく計画を立てる。ゲイを差別する牧師、ユダヤ人や黒人に偏見をもつ人種差別論者、人工中絶に反対の立場をとる女性、死刑推進論者、強姦を容認する女性差別論者、つぎつぎ晩餐に招待され、そのつどテーブルには豪勢な食事とワインが並び、うまそうに食しながらテーブルに突っ伏し、5人は目と目を見合わせ、微笑を浮かべるというブラックなシーンが展開。死体は庭に埋め、その上には真っ赤なトマトがたわわに実る。トマトはもちろん食卓に供され、来賓はうまいトマトだと言って食っている。「ライ麦畑でつかまえて」を否定する女性まで殺し、高校でコンドームを配る女生徒は、殺しはしないが脅す▼ついに彼らにとって最大の論敵であるノーマンを招待することになった。ノーマンは落ち着いて晩餐をとりながら「もしワープしてナチを統率する前のヒトラーで出会ったらどうするか」という質問に「話し合って彼の思想を改めさせる。わたしの最大の武器であるコミュニケーションと討論能力を駆使して」タカ派とは考えられない予想外の答えをだす。冷静な筋道立った回答に、ノーマンを殺すつもりだった学生らは動揺する。別室で「殺すか、殺さないか」論議する学生らを待っている間、ノーマンはワインの匂いから薬物が入っていることに気づく。彼らが読みさしの新聞には9人の行方不明者の記事と、ふと目をやれば庭には盛り上がった9つの畝と土の上のたわわなトマト。ノーマンは別室からもどってきた学生らに、乾杯しようともちかけ彼らにグラスのワインを干させる。これでエンドだ。エンドクレジットのバックには床にころがる5つの死体とワイングラス、ノーマンはちゃっかり毒入りワインを学生たちに飲ませたのだ▼それにしても…この映画は「料理と殺人」それも少なくともレトルトをチンして食べさせる貧しい食事ではなく、かなり(と思える)手間暇かけた「晩餐」と「殺人」を組み合わせたのだろう。もともと料理とは、いや「食べる」とは隠微な行為だとふと思い当たる。口を開き、歯を立て、舌を見せる、こういうエロチシズムあふれる行為を、食する以外の日常生活でとれば、まちがいなくマナー逸脱である。食べるとは普通なら逸脱である行為を当然とみなしてよい「脱通常」の域にあるのだ。殺人が「脱通常」の最たるものであることを思うと、「食べる」その水源にある「料理」との相似性が浮かんでこないだろうか。意外かも、あるいは当然かもしれないが料理と殺人の相性はいいのだ。古典とも言える「シェフ!ご用心」やピーター・グリーナウェイ監督の「コックと泥棒、その妻と愛人」も料理と殺人だった。殺人ではないが料理と死が背中合わせだったのは「宮廷料理人ヴァテール」だ。フランス映画の「最後の晩餐」のすべてのシーンと「アメリカン・サイコ」で、滴り落ちた血の一滴が三ツ星レストランのソースだったというオープニングはデカダンスの極みだろう。そんなことを考えているとこの映画のたくらみは面白い。キャメロン・ディアスの、こぶし一つ丸呑みしそうな大きな口さえ可愛くみえる。

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