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シネマ365日

2014年5月11日

特集「料理の映画」 ミラノ、愛に生きる (2009年 恋愛映画)

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監督 ルカ・グァダニーノ
出演 ティルダ・スウィントン

食べるティルダ 

 ティルダ・スウィントンは本シリーズの特集にしなければおさまりそうもない女優さんなのです。そもそも目眩(めまい)しそうな経歴であります。遡れば14世紀スコットランドの王家につながる名門の出。ケンブリッジ大学在学中は共産党員、というところはなんとなくお姫さまがお忍びで下町事情をフィールドトリップするみたいな感じ、もしくはカエルに姿を変えた王女とか、とにかく人間離れしている女性なので形容に困ります。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで演劇を学び、デレク・ジャーマン監督のもと「カラヴァッジオ」でデビュー。ジャーマン組の「ラスト・オブ・イングランド」「ザ・ガーデン」「エドワード」「ブルー」などに出演。変わった映画にしかでないのかというと、いえいえ「コンスタンティン」では羽を焦がして墜落してきた天使ガブリエルを。出番は少なかったですが主演のキアヌ・リーブスよりよっぽど存在感がありました。それにこれ「ナルニア国物語・」の白い魔女。玲瓏な魔女がティルダの神々しさ(こうまで書くと、お前アホかといわれそうなのはわかっていますが)に、まさにぴったり。ばかばかしいとしか言えなかった「ザ・ビーチ」では正体不明の島の牢名主みたいな女だってやっちゃう。彼女が出てきたばかりに、ますますこの映画は撹乱したほど重要な人物でした。コーエン兄弟のブラックな映画「バーン・アフター・リーディング」では不倫の妻、「アダプテーション」ではメリル・ストリープやニコラス・ケイジにまじって半分おとぼけのこの映画を、さらにとぼけさせるプロデューサーに扮しています▼ところで「ミラノ、愛に生きる」ですが、なんで「シネマ365日」に既出の映画を再度とりあげたかというと、恋人同士の主人公ふたりは別れるであろうと前回想定しましたが、今回は「いや、うまくいくであろう」と宗旨替えしたからです。なんでか。簡単な話このふたり、ヒロインのエンマ(ティルダ・スウィントン)と恋人のアントニオはどっちも料理を作るのも食べるのも大好きである。息子のエドアルドは友人のシェフであるアントニオにエンマを「母は料理が好きだし上手だ」と紹介し、エンマは初対面ですぐエプロンをつけてアントニオの調理を手伝う。それくらい料理の場に身をおくことが自然な女性です。考えてみればこのふたりは朝から晩までいっしょにいて、どっちかが作った料理を「おいしい、おいしい」と褒め合いながら食べるにちがいない。朝食がすめば昼食に「なにを作ろう」と相談し、昼飯のあとは夕食を楽しみにし、つまり一日が食べる愉悦で埋まるのである。ケンカくらいはするだろうが考えてもみよう。人間おいしいものを食べながら不機嫌でいたり怒っていたり、できはしないのだ▼アン・リーが「恋人たちの食卓」でシェフにいわせる「飲むことと食べること、男と女、食とセックスは人間の欲望」であり、特に「食べる」は一生の最後まで残る欲望だ。料理好きとは、料理しなければ気がおさまらないうえに、それを食べることがワンセットになっている人種のことだ。エンマはアントニオを、アントニオはエンマを得たということは、気が合う最強の相手にめぐりあったことであり、ちょっとやそっとのトラブルなど、うまいものを笑いあって、ほめあって食べるという「至福の時」の前には雲散霧消してしまうであろう。この映画はティルダのジル・サンダースの着こなしもさることながら、それにもまして有無をいわさぬ彼女のエロチシズムは食べる表情である。食と快楽が美しい双子の姉妹であることをティルダとこの映画は表現し、食と快楽がグロテスクな双子の兄弟にもなることを「最後の晩餐」の男たちが表現している。ティルダの中性的な容貌や肢体には、女とか男を離れたユニのエロチシズムが色濃い▼ドイツの写真誌「Du」がティルダを特集したことがある。「エドワード」やファッション誌のモデルになっている一場面もあるが、荒れた庭のベンチにひとり座っている後ろ姿とか、「フィクサー」でアカデミー助演女優賞を受賞したときのスナップがある。いちばん印象的だったのは上半身のヌードだった。お世辞にも豊かとはいえぬ、むしろ貧しい素朴な胸をそのままに、顔を正面に向けている。睨んでいるのでもなく凝視しているのでもない。短い髪を無造作にかきあげた広い額。唇は女性には不似合いと言っていい、意思の強さで結ばれている。力を感じるのにそれがとても自然だ。脱力しているのにとても強靭だ。そんな印象を持つ▼彼女の画像を見ていると、ティルダの表情には無機質に近い、とりとめのない茫洋としたものがあることに気づく。俗界、俗人、俗悪、俗物、俗説、凡俗、卑俗、俗称、ありとあらゆる「俗」からそれはほど遠い。あくびしていてもつまみぐいしていても、大笑いしていても彼女はエレガンスだ。そんな彼女が俗中の俗である「食べる」に全身全霊をあげ「俗に入って俗を出る」ものにしてしまった、それがこの映画だった。

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