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特集「女のわがまま」

2014年6月8日

特集「女のわがまま2」 アウェイ・フロム・ハー 君を想う (2008年 社会派映画)

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監督 サラ・ポーリー
出演 ジュリー・クリスティ/ゴードン・ピンセント

私を見棄てていいのよ 

 高齢社会となった日本で、ヒロイン、フィオナ(ジュリー・クリスティ)の台詞は、他人事ではないだろう。身につまされるものが多いにちがいない。「黄色がどんな色だったか忘れるのよ。でも忘却が甘美に思えるときもあるの」「最近よくあるわ。大事なものを探しまわって、それが何だったか思い出せない」「一度忘れるとすべて消えてしまうのね。おそらく過去に大事なことだったのね。自分が消え始めているわ」。自分が消え始めるとはぞっとする言葉ですね。この映画の原作は短編の名手アリス・マンローの「クマが山を越えてきた」です。2013年ノーベル文学賞受賞。原作が女性、監督が女性、主演が女性。サラ・ポーリーは本作が初監督ですが、この前年「あなたにならいえる秘密のこと」でジュリー・クリスティと共演しました。同作の監督がスペインの女性監督イザベル・コイシュ。「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたにならー」でサラ・ポーリーを主演に抜擢しています。イザベルにせよ、サラにせよ、監督作品がたちまち有名映画賞の対象になる活躍ぶりです。サラはこの映画でいちばん大変だったのはクリスティを口説き落とすことで、じつに8カ月かかったと打ち明けていました。クリスティもそれには苦笑していた。脚本もサラですから、監督・脚本・キャスティング、すべて納得づく、万全の態勢でクランクインしたわけね▼監督は余裕たっぷりだ。たびたびずれる時間軸もわずらわしくない。できることなら人生で避けて通りたい「結婚生活の終わり」の情況を乾いた詩情で描く。なにしろ「自分が消えていく過程」だからだれにとっても楽しいものでも愉快なものでもないことはわかっている。いちばん辛いのは本人より周囲の家族だと思うかもしれないが、監督はハッキリ「本人だ」と断言する。いくら家族にとっても所詮は他人事である。こうなったのが自分でなくてよかったと思っているかもしれないし、こうはなりたくないと思ったとしてもだれも責められないだろう。いくらのしかかる介護が大変だといっても、施設に預ければ物理的な労働からはほぼ解放される。しかし大脳が完全な空白に至るまで、ときとしてよみがえる記憶と認識。繰り返し、繰り返し訪れる「自分が消えていく」ことに耐える苦しみは本人しかわからない。監督は家族の苦労話と愛情物語を描きたかったのではない。自分が自分でなくなっていく、永遠の精神の闇に移行していく日々、それに耐え自分をみつめる無辺の絶望と孤独。実存の窮極相である無を体現する女優を監督は欲しかったであり、それに応えたのがクリスティだった▼妻が認知症になり茫然自失、なにも手につかない夫グラント(ゴードン・ピンセント)に、看護師クリスティは言う。「わたしは男に棄てられる女でいいわ。過去のあなた(グラントのこと)いい夫じゃなかったのね。だから妻が自分を罰しているのではないのかと思うのね。わたしは看護師として人の最期に立ち会うことが多いけど、悪い人生じゃなかったと言うのはたいてい男よ。奥さんはちがうわ。恋をしたときはそれが運命だと思う。恋が終わるとそんな気がしたにすぎないと思う。結婚したときはなにがあっても添い遂げようと思ったけど、でもちがった」この覚めた現実直視。びくっとする男性は少なからずおられるでしょうね▼フィオナは認知症が進み、重症の入居者が収容されるフロア「2階」へ移される。そこにいるのはほとんど寝たきりであり、自分がだれかも忘れている人たちだ。夫はフィオナが一時元気を取り戻した原因が、男性入居者との交際であったことから、その妻マリアンに頼み、もういちど彼女の夫を施設に戻してもらう。マリアンはフィオナを介護するグラントに「もう心を決めたら」と引導を渡すのだが、グラントはたびたびの浮気で妻に苦労させてきた負い目・引け目がある。グラントがマリアンと寝るのは彼女の関心をひいて提案に応じさせる涙ぐましい努力だともいえようが、まあこういう先のない状態に追い込まれたら、情事に走りたい気になるのも、わからぬではないな▼フィオナがいよいよ2階に移動した。グラントは「妻とふたりだけで話をさせてくれ」と看護師に頼む。個室で本を読んでいたフィオナは目をあげ「なぜ来たの。わたしを棄てて去ればいいのよ。わたしを見棄てていいのよ」と夫を見つめ抱きしめる。夫はようやくの思いで「できないよ」とつぶやく。これがエンドだ。妻が最後のわがままとして自分で自分の人生に幕を引いた、そんなひっそりした見方もできようが、はたしてそうだろうか。フィオナはじつのところ夫との共生にうんざりしていたのではないか。死ぬ時くらいひとりになりたい。いっそボケてやろうかしら…あながち見当外れの解釈ではないと思うのだ。現にわたしの男友達は「嫁はんだ、子供だと、家族にまといつかれるのは鬱陶しい。いざとなったらおれはボケてやる」と比較的若いときから覚めていた。女だって同じ感慨を持たないとは限らないのだ。まして死ぬまで男の世話で一生を終えるかと思うとぞっとする女だっているにちがいない。家族は大事にするし、今までもしてきたが、独りでいることで落ち着く男と女もいるのである。地味な、ある意味あんまり見たくない本作がクリーンヒットとなった。監督はそれについてちょっとしたクリエイトの秘密をもらしている。「万人に受け入れられるような映画をつくるには、焦点を絞り切るほうがかえって良い場合がある。特定の場所の特定の文化に」クリスティの美しさが際立っていますね。デヴィッド・リーンがふるいつきたくなった「わたしのラーラ」(「ドクトル・ジバゴ」)から40年。本作のこのときは65歳になっていました。「アフターグロウ」でクリスティ復活を印象づけたのが56歳のとき。おそろしいくらいのマイペースで、進化をやめない人ですね。

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