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シネマ365日

2014年6月28日

ランデヴー (1985年 恋愛映画)

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監督 アンドレ・テシネ
出演 ジュリエット・ビノシュ/ランベール・ウィルソン/ジャン=ルイ・トランティニャン

一粒の麦 

 ジュリエット・ビノシュが19歳、アンドレ・テシネが42歳。初顔合わせのときですね。この13年後にふたりは「溺れゆく女」を撮っています。テシネの映画世界の背骨は「一途な愛」にあると常々思っているのですが、本作でそれを最も体現しているのはほかでもない劇中劇の「ロミオとジュリエット」のジュリエットなのです。女優志願のヒロイン、ニーナ(ジュリエット・ビノシュ)はトゥルーズの田舎からパリに出てきた。同棲相手と別れ、新しいアパートを探しに訪れた不動産屋で、内気な社員ポロに会う。一目惚れしたポロはあっちこっちの部屋を親切に案内し、ニーナも好意を持ち彼のアパートに転がり込む。そこでポロの同居人カンタン(ランベール・ウィルソン)と出会う。カンタンは有望な若手舞台俳優だったが、恋人が事故死した喪失感から立ち直れず、今は場末のクラブで「ロメオとジュリエット」のパロディのアングラ劇に出演している。ニーナは彼が放つ破滅的な匂いにひかれ一夜を共にするが、その翌朝カンタンは車にとびこみ自殺してしまう▼カンタンの葬儀でニーナは初老の演出家、スクルツレー(ジャン=ルイ・トランティニャン)に会う。彼の話によって彼の娘とカンタンが恋人同士で、娘の死によってカンタンがドロップアウトしたことを知る。スクルツレーは娘の霊がニーナにひきあわせたのだと言い、ニーナを彼が演出する「ロミオとジュリエット」の主役ジュリエットに抜擢する。ニーナはめぐってきた大役に喜ぶが、カンタンの亡霊が現れ「ジュリエットの愛は君が経験したこともなく、想像もできない純愛だ。君はジュリエットを演じヤジを浴び、恥をかくといい。彼女の役を演じ物語に泥を塗るのは許さない」。ニーナはおそろしくなり、スクルツレーに亡霊のことを打ち明けると「カンタンとわたしの娘は16歳で出会い、芝居にも愛にも成功し全てを共にした。一度にすべてを得るのも考えものだ。もうなにも待つ必要もなく期待するものもなく、欲望もないまま二人は堕ちていった。心中を試みたがカンタンだけ生き残った」オカルトティックなカンタンの愛と出現にますますニーナは気味悪くなりジュリエットを降りるという。スクルツレーは「降りるというなら止めない。君は自由だ。僕はロンドンに帰る」「そんなの困る」「芝居は成功するよ。弱気になるな。カンタンは死んだのだ。幕を開けなさい」エンディングは聖書の言葉、ヨハネ12章24節のあの一粒の麦である。「一粒の麦地に落ちねば一粒のまま。落ちて死ねば多くの実を結ぶべし」▼ふ~ん。じゃこの映画で「一粒の麦」はスクルツレーの娘でありカンタンなの。すべてを共有し成功し人生で望むものはないとなって自殺した二人のこと? どうもちがうようだわね。カンタンの死から以後ニーナに変化が現れる。男と適当にセックスしていたいい加減なそれまでの生活から足を洗い、きちんと仕事しメリハリをつけ、目的をもって生きていこうとし、ポロに「わたしを信じて、あなたを愛しているの、だれとも寝ないわ」とまで言う。でもポロには通じない。こんな女に振り回されるのはもうこりごりだと思っている。このあたり「これが人生の現実だよ」といわんばかりのテシネの虚無感が、もっと言うなら覚めた「いじわるじいさん」ぶりがクッキリ。一粒の麦は結局女優として生きていこうとするニーナの再生を言っているのでしょうね。その産婆役にさすがジャンールイが渋い味をだしていたわ。テシネの映画の男は相変わらずよくいえば繊細で感受性が鋭く、悪く言えば観念的でダイナミズムがない。青春映画にまちがいないのにどこにも生臭さのない妙な映画だ。眠っている全裸のニーナのシーツをめくって白いお尻と背中を見せるシーンは、川端康成の「眠れる美女」ふうで、青年の欲望というより視覚的な刺激だけで興奮する老年のセクシュアリティに近い。ニーナも女優として成功するのかしないのか、テシネはなにも言っていない。一粒の麦という再生の気配だけを残して本作は終わります。ま、テシネにすればそれでも充分歩み寄っているってことか。

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