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特集「美しい虚無-妄想映画の魅力」

2014年7月2日

特集 美しい虚無=妄想映画の魅力 カリガリ博士 (1919年 ホラー映画)

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監督 ロベルト・ウィーネ
出演 ヴェルナー・クラウス/コンラート・ファイト

妄想する力

 ジャンルとはいえないでしょうが映画には「夢オチ」という作り方があります。「妄想オチ」といってもいい。最後まで見て、結局ヒロインかヒーローが覚醒して現実に戻る、そうか、あれは夢だったのか、あるいは主人公の脳内劇場だったのかと観客にわかる。傑作・名作が多いです。クリストファ・ノーラン監督の「インセプション」、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター・アイランド」、アレハンドロ・アメナバルの「オープン・ユア・アイズ」「アザーズ」、アレクサンドラ・アジャの「ハイテンション」この手の映画にはどんでん返しの名作が少なくありません。ジェームズ・マンゴールド監督の「アイデンティティ」、ブライアン・シンガー監督の「ユージュアル・サスペクツ」、見ようによっては「トータル・リコール」だって「夢オチ」のひとつだし、ギレルモ・デル・トロ監督の「パンズ・ラビリンス」も少女の夢世界だった。恐怖の夢オチは「ボクシング・ヘレナ」(ジェニファー・リンチ監督)でしょう。女性監督でなければ発想できない黒い不気味さが充満していました。「永遠のこどもたち」(J・A・バヨナ監督)も忘れられません▼ひとつまちがうとインチキじみた結果になるのですが、でもこれらはどれもみな屈指の映画です。なぜか。人生とは結局はかない夢であったり妄想であったりするのではないかという前提がわたしたちの遺伝子には刷り込まれている。すぐれた映画は肩をゆさぶるように、ふだん眠り込んでいる虚無の世界にわたしたちを目覚めさせる。わたしたちが知らずしらず、日常の心の奥で描いていた夢や妄想は、それがたとえ虚しくはかないものであったとしても、残酷で過酷な現実からわたしたちを救う「美しい虚無」であり、それを思い描くことのできる想念の力だけが、人間にクリエイトさせる最大のエンジンではないかとさえ思います▼「カリガリ博士」とは「元祖夢オチ映画」なのです。たった45分の尺に幾重もの襞が織り込まれている。ドイツ表現主義の代表作といわれるサイレントですが、そんなことを知らなくても見るのに不足はない。しかしまあ「フィルム・スタディーズ事典」(フィルムアート社)が手際よくまとめた「ドイツ表現主義」によるとこうです。「リアリズムを避け登場人物の激しい内面を抽象的に表現しようとした。極端なカメラ・アングル、歪んだセット、様式化された演技とメークアップ、映画はほとんどスタジオで撮られ自然界を念入りに排除する。一般的にドイツ映画における表現主義は、夢遊病者に殺人を犯させた邪悪な催眠術師についてのホラー映画〈カリガリ博士〉によって始まったという点で意見が一致している。ドイツにおける表現主義映画の製作は、1920年代半ばに頂点に達したが、30年代のサウンドの到来とナチス台頭にともない多くのドイツ人映画製作者がハリウッドに移住したことによって、この運動は消滅した」▼劇中の建物やストリートはほとんどまともなアングルで撮影されておらず、不安に身をよじるように歪んでいます。カリガリ博士のヴェルナー・クラウス、眠り男のチェーザレ(コンラート・ファイト)らも、濃い隈取で目のふちを隈取り眉は黒々と、のっぺりした白い顔の表情は大げさに変化するという「様式化された演技とメークアップ」で、暗さや頽廃を漂わせます。斜めに傾いた壁やストリートは、デヴィッド・フィンチャー(「セブン」「パニック・ルーム」)の「不安の建築空間」を先取りしている。モノクロの画面は人物の顔や体を光と影が鋭く分断する。どこをみても心が安んじる構成はとんと見当たらない。それもそのはず、本作が作られた当時のドイツは、第一次世界大戦の敗戦でそれまでの体制や価値観が崩れ、ナチスの台頭とともに文化は崩壊していった時期です。ドイツだけではありませんでしたが国も国民も傷ついたまま、すべての表象に濃い影が落ちていました▼カリガリ博士に現れる精神病患者の「連続殺人の妄想」も新しい表現を模索しての結果でした。楽しい映画ではないかもしれませんが、広い映画の世界には好むと好まざるにかかわらず、抑えておくほうがいい映画というのがあります。本作はその代表的な一本です。

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