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特集「美しい虚無-妄想映画の魅力」

2014年7月17日

特集 美しい虚無=妄想映画の魅力 ラ・パロマ (1974年 ファンタジー映画)

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監督 ダニエル・シュミット
出演 イングリッド・カーフェン/ペーター・カーン

妄想のなかで生きる愛 

 イジドール(ペーター・カーン)という青年の妄想でなりたつ映画です。監督はなにが言いたかったのだろうと不思議に思わない? イジドールが娼館の歌手ラ・パロマことヴィオラ(イングリッド・カーフェン)に恋して通い詰める。彼はセレブの坊っちゃんで、広大な城館に住んでいることがわかってくる。しかも一人息子だ。ヴィオラは酒に溺れ、夜な夜なステージで気だるげに「シャンハイ」を歌う。娼館のマダムも娼婦たちも、身内同士ではほとんど会話らしい会話をせず、意味ありげな視線だけで意志を通じ合わせる。めくばせひとつでコミュニケートできる、特殊なプロフェッショナルな空間である。楽屋にもどったヴィオラは鏡の前で酔いつぶれる。付き人の少女がバラの花束を掲げて入ってくる、メッセージがある。ヴィオラは「またあの男?」と邪魔くさそうにひとりごちる。突っ伏してしまったヴィオラに医者がくるが「ま、数週間の命でしょうな」と診断。マダムの顔からは感情が読み取れないが、黙って「ラ・パロマ公演」のポスターに「中止」と書く▼イジドールはヴィオラを身請けし、彼女の治療のためにヨーロッパ中の保養所を転々とする。ついにヴィオラは全快する。歓びのふたりは秀麗な山岳をバックにアリアを歌う。イジドールはヴィオラを湖畔の城つまり自分の家に連れて帰る。山々を背景に優雅な城壁がそびえる。こんなところに住むのかと思っただけで貧血を起こしそうな大邸宅である。案の定ヴィオラは憂鬱そうだ。彼女はイジドールの度重なるプロポーズにもかかわらず、またイジドールを愛しているにもかかわらず、なぜか結婚だけは「ウン」と言わない。ヴィオラの言い分はこうだ。自分が愛しているのはイジドールではなくイジドールの自分に対する愛である。彼は何でもいうことを聞いてくれる、献身的である、彼の愛を疑うすべはない。でも結婚はいやである。なんのことはない、忠実な犬を可愛がるようなものだ。いくら身を捧げても彼女が愛するのは自分だけである。こういう人間はよくいる▼イジドールは母親に助けを求める。息子のSOSを受け取り自分で車を運転してやってきた母親の若くてきれいなこと。母親がヴィオラを見誤るはずもなく、息子に言うには「人をみる目をお持ちなさい」。イジドールは「母さん、人を愛したことはあるか、愛されたことはあるか」熱でうかされているゆえ、母親は仕方なくヴィオラを呼んで「ここで何でも自由にしてくれていいわ(男関係も含んでいる)。でも結婚だけはして息子を幸せにしてちょうだい」こう言って式をあげさせ、さっさと運転して去る。イジドールの親友のラウルが招かれる。なかなかいい男である。たちまちヴィオラとラウルは関係を持つ。明日館を去るというラウルに「わたしもいっしょに行く」とヴィオラが言う。ラウルはあわてる。君みたいな金のかかる女を養いきれないというと、大丈夫イジドールが出してくれるからとヴィオラが請け負う。さすがのイジドールもそれだけは断る。夫婦のトラブルに巻き込まれないうちにと、ラウルはその夜のうちに出立する。もちろん女は置いたままである▼なんでも自分のいうことを聞くと思っていたイジドールが拒否したことを、ラウルはイジドールの裏切りだとして、復讐のため「死んでやる」ことにする。あやしげな薬を取り寄せ、衰弱死する前に遺書を残す。3年経ったらラウル立会のもとに墓を掘り返し、イジドール・シュミット家の眠る礼拝堂に遺骨を移し、その日の日没までにシュミット家先祖伝来の方法で埋葬してくれというものだ。イジドールはラウルとふたり汗だくになって墓を暴く。ラウルこそいい迷惑である。棺の蓋をとると生前のままのヴィオラが眠っていた。まるで「聖女だ」とイジドール。へとへとのラウルは「聖女? 商売女じゃないか」とにべもない。しかしである。骨にするとなると難儀だ。日はすでに午後だ。どうする。ラウルが「君が遺体を切り刻んで焼けば日没までに間に合うかも」などと言い出す。乗りかかった船である。イジドールは大きなナイフを振るってヴィオラを刻む。シーンは一転。茜色の日が沈む彼方へ、骨壷を頭の上にかかげたイジドールが礼拝堂に急ぐ後ろ姿…ハッとイジドールがわれに返るとそこは娼館。舞台ではヴィオラが「シャンハイ」を歌っている▼イジドールの妄想の旅は終わりました。イジドールとは童顔でまるぽちゃで、いかにも育ちのよさがわかる青年です。劇中結婚したふたりが山脈をバックにアリアを歌うのは、オペラ好きの監督の嗜好でしょうね。話の筋に全然関係ないものね。ヴィオラというのがこの世のなにがそこまで気に入らんのかというほど不機嫌で、何者をも拒む、青白い死美人みたいな女である。母親でなくても女同士ならひと目でヤバイ女だとわかる。でも坊っちゃんはそんな女がいいのだ▼はじめに戻るけど、監督はなにが言いたかったのだと思う? 妄想とはこの場合完全に、一種生きる力ですね。それが言いたかったのだと思います。妄想の中でしか生きることのできない愛だってある。監督はイジドールのいじらしいまでの愛を実現させるためには、妄想という形をとるしかないことがわかっていた。この映画を注意深く見ればラストにいたるまでどこひとつにも現実感はありません。みな夢の連続のようにふわふわとしている。肉体らしい肉体を持って現実感を与えるのは、唯一母親です。

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