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特集「男前」

2014年8月30日

特集「男前」 アンジェリーナ・ジョリー(下) チェンジリング (2008年 社会派映画)

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監督 クリント・イーストウッド
出演 アンジェリーナ・ジョリー/ジョン・マルコヴィッチ

クリントのフェミニティ 

 クリント・イーストウッドは「男の中の男」を描いてきた監督であると仮定したとき、どことない違和感を感じ続けてきた。たとえば「 ダーティ・ハリー 」の第一作で、彼が部下の奥さんから家族のことを聞かれる。「妻は死にました」。不幸だった妻の死をハリーが悼む。自分が警官だから妻がこんな目にあったという後悔を、クリントはおおげさにせずとてもよく現していた。こみいったことを考えたわけではなかったが、クリントの決定打となったこの映画で、どこをいちばんよく覚えているかというと、そこのシーンなのだ▼アクション映画もあるし戦争ものもある、ガンマン映画もあればミュージッシャンの映画もある、よくいわれるように「 許されざる者 」からクリントの作風は大きく変わったかもしれない。それはそうだがクリントが公私とも深い関係を保ち、終盤には暴露本を発行して巨額の慰謝料を取ったといわれるソンドラ・ロックとの共演作など、特にクリントの女性の扱いがよく出ていると思って見ていた。あの泥仕合は男女のもめごとのほとんどのケースがそうであるように「どっちもどっち」だと思うが、ソンドラ・ロックはこの時期いちばんいい仕事をしているし、クリントはクリントで、「 マディソン郡の橋 」とか「目撃」「 ミリオンダラー・ベイビー 」そしてこの「チェンジリング」に通底するフェミニティの兆しを垣間見せている。マスキュリニティ(男性性)に満ちた彼の映画にある、意外なフェミニティ(女性性)は、かなり早い時期からいくつかの作品に見られていたものだ。「 ダーティ・ハリー 」の第一作もそうだったし、ソンドラ・ロックをヒロインにした第4作など「ダーティ・ハリエッタ」といわれるほどの快作だった。しかしなんといっても傑作は「 ミリオンダラー・ベイビー 」だろう▼ボクシングのカット・マンのダンは娘との関係を修復しようと手紙を書き続けるが、父親に愛想をつかしている娘は受け取り拒否で送り返してくる。ダンは封も切られていない何通もの手紙を、丁寧に特別な箱にしまっている。ダンにボクシングを習いたいと頼み込んで弟子になったマギーは、連戦連勝、快進撃を続ける。マギーとダンとのあいだには父娘のような情愛が生まれる。マギーは試合中汚い手を使った相手によって重傷を負い、二度とリングに立てないばかりか、寝たきりという再起不能に陥る。安楽死させてくれというマギーの望みをダンは叶え、苦く辛い後悔とともに生きていく。この場合父と娘だが、クリントの描く女性像にはこういう愛情のあり方が多い。セクシュアルというより、本当に愛し合い理解し合い、大事にしあっていると、セクシュアルであることを通り越してしまう、いわば透明な愛情観といったあり方に至る、それがクリントの映画にあるフェミニティの核のような気がする▼「チェンジリング」は息子が誘拐され、警察によって別の男の子を息子だとしてあてがわれ、真相を追及する母親クリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)がヒロインだ。クリスティンに協力し警察の腐敗を暴く牧師(ジョン・マルコヴィッチ)らの追及は幼児誘拐連続虐殺事件に発展する。警察の権力によるイジメや、女性蔑視や、病院の腐敗や、トンデモ要素はテンコ盛りあるが、クリントはそれらからうまくダシをとりながら、ヒロインがいきつく無償の愛、この映画で言う「希望」に観客をたどりつかせる。まるで「希望と虚無は双子の姉妹だ、いやがらせでいうのではないが、人生の実相はそうなのだ、本当の愛はある、確かに存在するけれど、コインのようにむなしさとの裏表なのだ」…それをクリントはくりかえし映画にしている▼「チェンジリング」においても、クリントは残虐事件を告発したかったのかというと、そうでもない。母性愛を主張したかったのかというとそうでもない。カンのいいアンジーは、これは単なる母子映画ではないとクリントの真意を読み取ったのだろう、派手な演技と表情を極力抑制し、絶望に押しつぶされかかった女性が、たとえ報われなくても、自分の愛によって生きる力を見出していく、むしろこっちのほうをマスキュリニティ(男前)とよぶべきではないかという存在をクリエイトしている。

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