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シネマ365日

2014年11月21日

特集 ガーリー女子会 ドゥーニャとデイジー (2008年 家族映画)

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監督 ダナ・ネクストン
出演 マリアム・ハッソーニ/エヴァ・ヴァンダー・ウェイデーヴェン

ふるさとに導く空の道

 ガールズムービーは今に始まったことじゃないですね。本女子会は懐かしのガーリー系からガーリー元祖ソフィア・コッポラ、いまやガーリーの熱き星、レア・セドゥらが登場します。本作は「自分探しの旅」の映画です。後述の歌詞でいえば「ふるさとに導く空の道」を探す。でもこれ、どっちかというとゲイの映画だと思うけどな。なんでもかんでもゲイにせんと気がすまんのかと言われそうですが、でもなー、いくら仲のいい親友同士でも「わたしを離さないで」とか「ズーッといっしょよ」とか言うでしょうか。そういう台詞はそれなりの関係設定で発されるのものではないのでしょうか。それに「自分探し」の映画って主人公の限界を感じるのよね。最近(といっても2003年の)ご存知ソフィア・コッポラ監督の「 ロスト・イン・トランスレーション 」があったけど。彼女の映画って一言でいうと「なにかある、でもなにもない、なにもない、でもなにかある」なのよ。雰囲気は素晴らしいがじつはとりとめがない。あれを「みずみずしい」という理由は、スカーレット・ヨハンソンのお尻をアップで撮ったシーンのことを意味しているのね、きっと。たぶん「自分探し」ってみな身に覚えがあるから映画に親しみを感じるのですね。もひとつよくわからなくても(うん、まあそんなものだったかな)と思ったりするから。二度と戻りたくないみじめな時代が、いわゆる「青春時代」だと思うけど、ああ言う不確かな時代のことをせっせと映画にする「自分探し」に、おお、よくぞここまでと熱中したのがこの映画。いい年になって本作をみて(あーあ、この面倒くさいことを言っている時代もあったのね)なんて思えるようになってやっと青春卒業です▼この映画だって10代の女の子ふたりがやれ見合いだ、結婚だ、妊娠した、別れた父親はどこだ、自分が妊娠したとき父も母も嬉しくなかったのかと不安になり、父親探しにでかける。なんだ・カンダ言ったって生まれちゃったのだからしょうがないだろ。ヒマをもてあましているみたいだわ。ほかにすることも考えることもないのかよ。デイジーは美容師見習いだけど、店長のいうことが気にいらないからってさっさと辞めちゃう。こういうもっともらしいヤング像が、いつまでたっても親のスネかじって「自分探し」をさせる気がする。デイジーとドゥーニャがゲイの関係であるとしたほうがすっきりする。少なくとも(放っときゃなんとかなるだろ)という程度の問題で大騒ぎするより、好きな相手と「わたしたちの人生これからどうする」と話を詰めるほうが映画は現実的具体的になる気がする▼ここはオランダ、アムステルダム。厳格なイスラム教徒の父母のもとで育ったモロッコ人のドゥーニャ(マリアム・ハッソーニ)と、奔放な直情型のオランダ娘デイジー(エヴァ・ヴァンダー・ウェイデーヴェン)は親友同士。カチンカチンのドゥーニャに結婚話がもちあがり、顔をみたこともない従兄弟との見合いを親戚たちは決めてしまった。そのため家族一同生まれ故郷のモロッコへ一時帰郷。デイジーは妊娠がわかって深刻。男は完全に逃げ腰。デイジーは実の父親のいるカサブランカへ。デイジーを追って母親と義父がこれまたモロッコへ。アムステルダムとは風習も習慣も違う街でデイジーは浮いてしまい、ドゥーニャの家族は迷惑顔。いづらくなったデイジーは父がいるはずのカサブランカへ出発。長距離バスに乗り込んだところへ、見合いの席を中座したドゥーニャがおいかけてきて、いっしょにいくことに。要するに「自分探し」の物語とは自分の「探し方次第」でどうでもなるから、これくらいの出たとこ勝負はフツーなのだ。いちいち「できすぎだ」と目くじら立てていてはいけないのだ▼カサブランカ到着後、荷物の盗難騒動でケンカになったふたりは別れわかれに。でも夜中になっても帰ってこないデイジーに、ドゥーニャは心配になって街に出る。例えは古いがまるで阿片窟のような暗い狭い、ごみごみした裏町の路地を、18歳の女の子が深夜探しまわる。かなり無理がありはしないか。デイジーはまるでわざとのようにだれもいない壁と壁の間に身を潜ませて半泣きなのだ。大声でさがすドゥーニャにデイジーは抱きつき(ここなのですよ、離さないでとか、一生いっしょにいるとかを口走るのは)それならそれでいいけど、ふたたび映画はデイジーの親父探しに。もう少しで見つかる、いや違った、今度こそ、いやまだだった、の連続。いっそ死んだことにしてくれへん? と思った。デイジーさえ「もうパパ探しはやめた」と言うのに、この映画は根気よく粘り、ついにデイジーは父親と再会する。で、どうなったか。どうもなるかい。父親には新しい家庭があって、でも自分のことを忘れたことはないという父親の言葉をきいてデイジーは得心。人生新出発という気になったところへ母と義父が到着。ドゥーニャの両親は無理やり見合いさせるのはあきらめ、夜の焚き火を囲んでふたつの家族はギターにあわせ哀調を帯びたモロッコの歌を歌い、踊る。人生の実相の底には必ず虚無が流れている。この映画で唯一現実のはかなさを感じさせた出色のシーンは、モロッコの青年が弾き語るこの歌でした「幼くて巣を離れたカモメ/母鳥からも波止場からも遠く離れて/カモメよ、カモメ/虚空にはばたき大海原に落とすその影ひとつ/ふるさとにみちびく空の道/忘れたのか/羽を休める場所もなく/日毎夜毎羽を動かす/その心根やいかに」

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