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特集「男前」

2015年2月18日

特集「男前2」 マリーヌ・ヴァクト 17歳(2013年 社会派映画)

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監督 フランソワ・オゾン
出演 マリーヌ・ヴァクト/ジェラルディン・ペラス/シャーロット・ランプリング

今のあなたが最上のとき 

 なにしろオゾンだからね(笑)、ほんとは本作を「美しい虚無=妄想映画の魅力」に入れたかったのです。それというのもこの映画全体がフランソワ・オゾン監督の妄想、といって悪ければ彼がイマジネーションで構築した仮想世界だといってもいい。ヒロイン、イザベルは17歳ね。高校生だ。箸が転んでもおかしい年頃の少女がニコリともせずふてくされ、ミステリアスにドラマの中軸にすべりこんでいく。一例をあげればこんな、どこにもいそうにない高校生をまことしやかに作り出したことが、そもそも「オゾンの構築するリアリティもどきの世界」です。オゾンの術中にはまらないうちに輪郭をはっきりさせておくとこうなります。17歳の売春婦がいる。高校生だ。SNSで相手を探し、指定された場所に行ってセックスを済ませる。ロストヴァージンは両親の海辺の別荘で。劇中のシーンは折り目正しく「夏・秋・冬・春」と変わり、ヒロインの送った一年間が物語られていく。オゾンの映画によくある進行です。「まぼろし」では夏の海辺に出来事は始まり、冬の海辺がラストでした▼ヒロインの感動と笑いのない生活はそのまま彼女の人生の無表情を表します。芥川龍之介の主人公の一人は、本屋のはしごの上から下を見て「人生はボードレールの一行にも如かない」とつぶやいた。この映画で出てくるのはランボーですが、実人生を知らない17歳のヒロインは傲慢になるより先に、早くも現実を前にしてうずくまっています。思春期というのはたぶんに観念的で、なにをやるにもアタマで考えるが行動に移すのはこわい、人の手を借りずすぐ実行できるのはせいぜいロストヴァージンくらいである。つかみどころがない自分自身に、なにをしていいかわからないが、とりあえずすぐ自己確認できるのが売春という行為だった、そんな感じです。金に困っているわけでも男が欲しいわけでも、ましてセックス依存症でもない(年頃らしく自慰はしていましたけど)▼イザベルが夜の海辺で男と寝るとき、セックスする自分を見ている自分の幻を見る。このシーンは重要だと思うのよ。自分を見ている自分がいる。責めているのでもない、ほめているのでもなく、あえて言えば(それでいいの?)とイザベルがイザベルに問いかけている。男に辱めをうけたり侮辱されたりすることもある売春行為のさなかにも、イザベルは自分をみている自分を感じる。快感もなにもない。ひとりだけやさしい男性がいて、彼が腹上死しちゃう。イザベルはホテルを飛び出すが警察の知るところとなり、いきさつを知った母シルヴィ(ジェラルディン・ペラス)は動転する。彼女は医師だ。離婚し今の夫はイザベルの継父にあたるが、娘は全然うちとけるようすがない。父親はしょせん他人であるからイザベルにはあっさりしたものである。「考えても意味ない。きれいな子だから男に誘われたのだ」母親思わずキッとして「きれいだと娼婦になるの?」「とにかく客の死で売春はやめたのだ」「死ななかったら続けているわ。パソコンも外出もケータイも禁止よ」。未成年者だから警察の監察下におかれる。多くの娼婦が強姦され襲われ、手錠をはめられ、首を締められ変態プレイのあげく殺されていると、監察官は実情を言ってきかせるが…▼ともかくイザベルは子守などして小遣いを稼ぐようになった。普通の男子生徒の恋人もでき、彼は家にも来てセックスもし、デートもし、親はほっとしたのも束の間、イザベルが夜遅く子守のバイトから帰宅すると義父が起きていた。「あなたはわたしが初めて寝た男に似ているわ」とイザベルがにじりよったところへママが帰ってきた。たいへん。イザベルを追い払ったママは「アバズレだわ、わが娘に吐き気がするわ」。ほとぼりがさめたイザベルは両親公認の彼に言う「おしまいにしましょ。わたし、ひとりで本を読みたいの」男は呆気「なぜ。急に」「あなたに恋していないから。わたしはこういう性格なの」。いくらなんでも彼がかわいそう。イザベルのやつ、ケーターはとりあげられたがチップだけは取り出して隠しておいたのだ。データはすべて残っている。売春再開である▼このあたりになるとさすがに辟易してきましてね、実人生のイロハも知らず親に食わせてもらっているこの女子高生の突っ張りに、いつまで付き合わないといけないのだろうと。オゾンも頃合いとみたのでしょう、とうとう彼の懐刀をするっと出しました。シャーロット・ランプリングです。マリーヌを初めてみたとき「ランプリングに似ていた」とオゾンは言ったくらい、彼のミューズですからね。ランプリングがものの10分ほど出てきて、この映画のキモを鷲掴みにしてしまいます。結論をいうとゆきくれていたイザベルはランプリングの言葉によって自分を取り戻す、人生の妄想から我に返ると言ってもいい。ランプリングは腹上死した男の妻です。客からの連絡だと思ってホテルで待っていたイザベルの前に現れたのは彼女だった。書くにはちょっと長いがとてもいいシーンです。「座っても?」とランプリング。「なにを飲む?」「同じものを」とイザベル。「ウィスキー」(これはランプリングの好みがそのまま出ています、スコッチのストレートです)。「彼の手帖にあなたの番号があったの。会いたかったの」「あんなことになって」「彼は病気だった。それにセックスで死ぬのは男の夢よ」ランプリングの語調に責める響きはありません。続けて「夫にはいつも女がいたわ。わたしは沈んでいた。わたしに勇気があったら男にお金を払わせセックスしたかった。でもできなかった。ときどき妄想するだけよ。今ではわたしがお金を払わないといけないわね」薄く笑い「6095室だったわね。予約したわ。300ユーロ。あなたの料金ね」。ふたりは部屋に来る。「わたしの横にきて」とランプリングがいい「部屋が見たかったの」ふたりはベッドに並んで横になる(オゾンには珍しく、なにも起こりませんが)。イザベル「わたしも部屋が見たかったのです。ありがとう」どれくらいたったのか、イザベルがはっと目を覚ますとだれもいない…ランプリングによってイザベルは、罪の意識からも人生を疑ってばかりいる自分自身からも解放されます。彼女に必要だったのは「あなたはあなたでそれでいい、嘆きのときも迷いのときも」そういってくれるだれか、かぎりなく頼りない(と思っている)自分をそれで正しいと保証してくれるだれかでした。その一言を得られた。夜の海の砂浜に立って自分自身を見ていた一年前のイザベルが、いまの自分を見たとしたらどう映ったでしょう。マリーヌ・ヴァクトですがこのとき22歳。今年(2014)くらいに出産したと思います。フランス映画ではときどきこんな目の覚めるような女優が現れますね。タイプはちがいますが、カトリーヌ・ドヌーブがデビューしたときの美しさに似ています。

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