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特集「ベストコレクション」

2015年3月9日

特集 弥生3月/ベスト・コレクション ハンナ・アーレント(上)(2013年 事実に基づく映画)

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監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ
出演 バルバラ・スコヴァ/ジャネット・マクティア/ニコラス・ウッドソン

カントの娘たち(上) 

 ハンナ・アーレントは自著「イェルサレムのアイヒマン」(みすず書房、大久保和郎訳)の第一章「法廷」で「検察の主張はユダヤ人の苦難の上に組み立てられており、アイヒマンの行為の上に組み立てられているのではなかったのである」と書く。ハンナはユダヤ人だ。ホロコーストへの弾劾を期待していたほとんどの読者は、読み始めて10ページにもならないうちに登場した「異議申立て」にとまどう。同書はハンナがイェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴し、帰国後「ニューヨーカー」誌に連載した報告書を一冊にまとめたものである▼この映画の成功はマルガレーテ・フォン・トロッタ監督を中心にした「ハンナ・プロジェクト」ともいえる精緻かつ大胆なアプローチだ。フォン・トロッタに脚本の共同執筆をもちかけられたパメラ・カッツは「思想家を映画にできるか」大いに迷ったが「アイヒマン」出版後、全米を巻き込んだ論議(というより脅迫)の渦に「あれだけ人を怒らせるのだからきっと映画にできる女性」と思った。20世紀最高の政治思想家のひとりであり、並外れた知性の持ち主であるアーレントのイメージを固めるため、プロジェクト・チームは著作・書簡集を渉猟し、友人、秘書、生前の彼女を知る人をインタビューし、ハンナの人間関係を把握した。資金調達を含め8年の準備期間をへて本作はクランクインしたのだ▼ハンナの伝記映画化は過去にすでに企画されたことが何度かあったが、それらはみなハイデガーとの恋愛がテーマだった。フォン・トロッタは惜しげもなくこの部分を切り棄てる。理由は「彼女は最高の哲学者であり思想家だった。恋愛がメインでは彼女の偉大さがでない。それどころかナチの男に恋するユダヤ人女性という、ひどい人物になってしまう」当時「ハイデガー詣で」といわれるくらいハイデガーの講義は人気の的であり、論壇の寵児だった。ハンナは18歳でハイデガーと関係を結ぶが、フォン・トロッタはにべもなく「彼は重要な男性かもしれないがハンナの人生にとって決定的な人物ではない」そのせいかどうか、劇中のハイデガーは影が薄く「なんでこんな男にハンナはフラフラしたのだろう」観客がそう受け止めてもかまわない、といわんばかりの描き方をしている▼映画はハンナがニューヨーカー誌連載スタートから非難を浴び、彼女の生涯でもっとも辛かった4年間に的をしぼった。ハンナは報告書にこう書いた「平凡でなんの意味もない人生から、アイヒマンは風に吹かれ歴史の中へ。旋風をまきおこした千年帝国とともに邁進した。彼は思考不能だった。これは愚鈍とはちがう。彼が20世紀最大の犯罪者となったのは思考不能だったからだ」「ユダヤ人居住地には指導者がいた。彼らは例外なく何らかの形でナチに協力していた」「その指導者がいなければ、死者も450~600万人まではいかなかっただろう」「ユダヤ人にとって同胞の指導者が果たした役割は、暗黒の物語における最も暗い一章だ」ニューヨーカー誌の編集責任者ショーンは、この原稿が発表されたら自分の首さえとぶかもしれないと腹をくくった。発行後編集室の電話は鳴りやまない。「こんな記事をのせてただですむと思っているのか」「お前を殺してやる」。部下の女性は言う「たった10ページでこの騒動よ」「1ページにつき100件のクレームだな」▼マスコミや大学関係者も参加した論争は大騒動を引き起こした。ハンナはまともな批判はひとつもないと冷静恬淡としていたが、周囲は煽られた。大学はハンナに辞職を迫る。「絶対にやめません」とハンナ。教授会「あなたには学生も集まりませんよ」「わたしの講義は満員です。学生たちの支持を得ています」アメリカでは受講生の少ない講義は、学生の支持がないとみられ教授は解雇されることがある。劇中でみる限りハンナの味方は、夫のハインリッヒ以外このふたりである。ニューヨーカー誌の編集者ショーン。ハンナの親友の作家メアリ(ジャネット・マクティア)。会合の席はハンナ・バッシングで盛り上がっていた。「計算づくでユダヤ人を批判したのさ。狡猾な女だ」「トラブルを引き起こすのが生きがいの女だ」。ショーン「ハンナを悪者扱いか。一流の政治思想家だぞ」。メアリ「あなたたちの批判はただのヒステリーよ。読みもせず批判するのね」「とても読めないよ」「あなたのアタマには高級すぎるわ」「アイヒマン裁判のレポートなんて彼女には力不足だ」「あなたたちとちがって彼女は収容所抑留の経験を持つの。当事者でありながら冷静に論じられるのよ」「利口だからさ。心ある人間よりね」「あなたより利口なだけじゃなく、勇気でも勝っているわ」▼喧々諤々の渦中でハンナは公の場で意見表明を決意する。場所は大学の講義室だった。教室は学生のみならず関係者が出席し、通路・階段まで満員鈴なりとなった。このシーンはかなり異例です。およそ10分近くハンナと、学生や関係者との質疑があるだけで「思想家を映画にする」難しさの一端はこういう静的な場面にもあるのかと思いました。バルバラ・スコヴァの演技は力強く、声と表情の微妙な変化によって動きの少ないシーンを刺激的に演じます。フォン・トロッタ監督がもっとも表現したかった映画の中心ですので、あえて全文を明日の掲載で引用します。限りない知性への愛をもってこの映画に肉薄した「カントの娘たち」ともいうべき関係者全員のみなさんに、リスペクトを禁じえません。

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