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特集「神も仏もない映画」

2015年7月8日

特集「神も仏もない映画」マドモアゼル(1966年 社会派映画)

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監督 トニー・リチャードソン
出演 ジャンヌ・モロー

まがまがしい女

ヒロインのマドモアゼル(ジャンヌ・モロー)を一言でいうと「まがまがしい女」です。昼は貞淑な女教師であるマドモアゼルは独身であるゆえ欲求不満であり、解消のため放火し、水門を開いて村を水浸しにし、家畜の飲水に毒をいれて牛や豚を全滅させる、のでありますが、欲求不満というだけでここまでやる女がいるだろうか。誇張しすぎだわ。そこでふと想像してみたのですが、監督がトニー・リチャードソンで脚本がマルグリット・デュラスで、主演がジャンヌ・モローね。リチャードソンの元妻はヴァネッサ・レッドグレーヴです。彼は自伝で「女王をやらせたらヴァネッサの右にでる女優はいない」と妻をほめちぎっています。ほめているのか恐れているのかわかりませんがそう書いてある。彼は「ジブラルタルの水夫」の映画化で、撮影中ジャンヌと恋におち離婚に至りました。マルグリット・デュラスとジャンヌ・モローときたら、半分狂気のいかれた女が三度の飯より好きなのだ。この3人が額をよせたらどんな女を作るか、火を見るより明らかです▼紙上仮想座談会ということにして書いてみました。トニー「これ、読んだかい?」モロー「何を?」トニー「アンドレア・ドウォーキンの〈インターコース〉だよ」デュラス「読んだわ。性的行為の政治学ね」(彼らの生没年と本の出版年を無関係に設定して進みます)トニー「ヨーロッパではほぼ400年もの間に、おそらく900万人にも達する女たちが魔女の嫌疑をかけられ、火炙りにされたとある」ジャンヌとデュラス「ありうるわ。女が本質的にラディカルであり、組織やタテ社会に相容れないことを、基本的に嫌う男たちっているのよ」トニー「女は抵抗しなかったのか」モロー「どうやって抵抗するのよ。女にはまだ、社会に抵抗する思想もノウハウも身についていないわ。わたしの主人公が男を求めて、ジブラルタルに出発するのは20世紀になってからよ」(「ジブラルタルの水夫」はデュラスの原作)。トニー「そうだったね、でもあのときもホントはもっとヒロインの哀しさを出したかったのだけど」。モロー「悪かったわね、わたしが演じたばかりに。火炙りになった900万人の女を、ひとりに凝縮してよみがえらせたら、どんな女のどんな映画になると思う?」。デュラス「書いてみようっと。原案にはジャン・ジュネのちょうどいいのがあるわ」…というばかな空想ですけどね(笑)▼「蜜の味」や「ブルースカイ」がそうであったように、リチャードソンはアゲインスト(逆風)で倒れない女を描いていい映画を作っている。「ホテル・ニューハンプシャー」のジョディ・フォスターもそうだったし(いかれた女がこの映画にはいっぱい出てきた)。しかしアゲインストを自分で作り出す女がいたらどうだろう。欲求不満でもいいし、夜と昼は別の顔、あるいはモラルとインモラルの二面性でもいいが、そういう状況設定は小道具にすぎない。本作のヒロインの本質は愛を信じないことだ。愛するとか信じるとかにアキアキした女だ。人を当てにしないから自己愛を自分で満たす事件作りにフルスイング。田舎者なんか上辺は「マドモアゼル」なんてオベンチャラを言っているが、彼奴らの本音は「パリでは平凡な女でもここではお姫さまだ」である。マドモアゼルに幻想はない。彼女の自己愛を満足させる行為とは、自分が狂気に片足を突っ込んでいる自覚とスリルだ▼前述の三人組が、独身で欲求不満の中年女という平凡な、俗悪なエネルギーを放出するキャラクターを作りたかったとは思えない。マドモアゼルは愛も信頼も希望もばからしくて信じないが、人と社会を傷つけることに限りない喜びを見出す。彼女が木こりに強姦の罪をなすりつけ、リンチに追いやり殺させてしまったのは、彼が「明日村を出て行く」と言ったからである。せっかく手に入れたセックスフレンドなのに(勝手なことするな)という、どうしようもなく酷薄な、唾棄すべき女をこの映画は生み出している。ラストで少年がマドモアゼルにツバを吐くのは故なしとしない。しかしそんな女をかばって真相をばらさず、犯罪の証拠を燃やしてしまうのもこの少年なのだ。これはリチャードソンのメッセージですね。ココロは、そんなビッチが彼は好きなのよ。

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