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特集「ディーバ(大女優)」

2015年10月10日

特集「ディーバ14」ティルダ・スウィントン
ブロークン・フラワーズ(2006年 コメディ映画)

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監督 ジム・ジャームッシュ

出演 ビル・マーレイ/シャロン・ストーン/ジェシカ・ラング/ティルダ・スウィントン/ジュリー・デルピー/クロエ・セヴィニー

ののしるティルダ 

本作は以後「リミッツ・オブ・コントロール」「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」と3作続く無気力男シリーズのトップです。殺し屋が主人公の「リミッツ」が、なぜ無気力男に該当するのかといわれるかもしれませんが、ジャームッシュの世界観が、どだい「なるようになる」だから、主人公が殺し屋だろうが吸血鬼だろうが、社会や人生での「摩擦」とか「抵抗」がいっさい排されている。「リミッツ」の殺し屋にしても、殺しのターゲットに近づくのに、ままごとみたいな合言葉を受け、回遊魚みたいにふわふわと旅して、幽霊みたいに警備をすりぬけ、ターゲットに近づく。主人公がいつも受け身で、身にまとっているふわふわした、とらえどころのない虚無感が、ジャームッシュの映画を、というより、刺激に満ちた現実を戯画的に縮小し、退屈にしてしまっていることは否めない▼主人公のドン(ビル・マーレイ)は世捨て人を絵に描いたような初老の男。コンピューター・ビジネスで財をなし、いやそれだからこそか、ひたすら無気力である。同居している恋人にシェリー(ジュリー・デルピー)は、空気みたいに頼りない男の存在に嫌気がさし、荷物をまとめて出て行く。それを見ながらドンは止めるでもなく、別れの言葉を言うでもない。空中をただようクラゲみたいな男である。ジュリー・デルピーは監督・脚本・主演をこなすパリ生まれ、ニューヨーク大学に学びアメリカの市民権を得て、「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」で脚本・主演、「パリ、恋人たちの2日間」で監督・脚本・主演に音楽と、女イーストウッドみたいな女優なンである。いっちゃ何だけど、このクラゲ男と過去に関係した4人の女を演じるのが、シャロン・ストーン、フランセス・コンロイ、ジェシカ・ラング、そしてティルダ・スウィントンだ。これだけの女優が、それぞれ1エピソードにしか出ないチョイ役に、なんでこぞって出演したのかどう考えても不思議だ。クロエ・セヴィニーはジェシカ・ラングの助手役で、クラゲ男に生理的な嫌悪感をもよおす若い女で顔を出す▼クラゲ男の隣人ウィンストンがジェフリー・ライト。20年前に別れた昔の女から手紙がきた。あのとき妊娠していた、産まれた子が19歳になる、父親を探しに行くといって旅に出た、あなたのことはなにも言っていないが、なにか感づいて会いにいくかもしれない…ウィンストンの勧めでアメリカ全土に散らばった過去の女をドンは訪ねることにした。ここが作為的なのよ。全然必然を感じないのよね。別れて20年も音信不通で放っておいた女のだれかが、差出人のない手紙をよこしたからといって、女にも生活にも未来にも、なんの感傷もなく、感動も求めない老いた男が旅に出るのか。どんな旅であっても、旅とは新しいなにかへの期待がある行為でしょう。ドンのような男は、息子だと名乗る青年が訪ねてきたらきたときのこと、と考えるのが彼らしい処し方であろう▼家具の一部みたいに家に引きこもりだったドンが、ピンクの花束を持ち、車のなかではウィンストン手製のCDを聴き、女たちを訪ねる。彼女らはみな驚き、一瞬のなつかしさは示すがそれだけで、みなしっかりした自分の生活を持っている。別れたときのいきさつはわからないが、たぶん男が棄てたのだろう。というのはドンという名前は、文字通り「ドン・ファン」の「ドン」で、彼は若い時相当の女たらしだったのだ。だから子供のひとりやふたり、いても驚くには当たらない…ドンとはだれとも人生を共有したがらない男の典型だから、そんな男に今さら過去にさかのぼる旅という、感傷を与えたことがこの映画を弱くしている。女たちは20年前の男など眼中にない。じゃあね、元気でね、と別れる。ひとりだけティルダ演じるペニーは逆上し「何の用? ハッピーエンドじゃなかったわ。出て行け、このサイテー男」と叩き出す。彼女の家は掘っ立て小屋で貧しく、刺青をいれた荒くれ男2,3人がいっしょにいるが、みなまともな風体ではない。ティルダは髪を長くして黒く染めているので、いやましにエキセントリックである。ドンは男たちからブンなぐられた挙句、車に放り込まれ気絶してしまう▼別れた女はもうひとりいて、彼女は亡くなった。墓にきたドンは花を供え木の下で憩いを取り、帰途につく。空港でみかけた青年と翌日も出会い、話があって「君はぼくの息子だろう」と言うと、青年は「いかれている、気色悪い」といって逃げていった。そこへ車が止まり、顔をだした青年が同乗者に呼ばれた名前はドンと同じだった。彼が? とも思えるが、映画はもう息子さがしなどどうでもよく、ひたすら人の世と社会のなりわいの流転を象徴するのみ。ドラマとしての落とし所に刺激がなくて退屈した。クラゲ男の失活人生に監督は肩入れしすぎて、せっかく人生を盛り返した女たちの活力が、現実社会の「ブロークンフラワー」であるクラゲ男の、引き立て役にしかなっていないところに彼の世界観の限界を覚える。

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