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特集「銀幕のアーティスト」

2018年9月1日

特集「銀幕のアーティスト8」①
セザンヌと過ごした時間(上)(2017年 事実に基づく映画)

監督 ダニエル・トンプソン

出演 ギョーム・ガリエンヌ/ギョーム・カネ

シネマ365日 No.2589

現実は脳の中にある 

銀幕のアーティスト8

 1910年12月イギリスの批評家ロジャー・フライがロンドンで「マネとポスト印象派展」を企画開催した。ヨーロッパの近代絵画に関するイギリスで初の大規模な展覧会は、ブルームズベリー・グループに大きな衝撃を与え、ヴァージニア・ウルフは「人間の性格が変わった」と批評に書いている。セザンヌの作品は21点出展された。果物、頭蓋骨、プロヴァンスの風景など彼が日常の見慣れた地味な題材を描いていた。「彼の絵に興味を抱くのは病理学の研究者だけだ」と新聞は酷評したが、今にして思えば一部、当たっていた。セザンヌは印象派ととっくに決別していたし、彼の目に見えたものは彼の脳の中にあるものだったから、それまでの絵画批評では捉えようがなかったのだ▼絵そのものは非現実的なものであると断定するところからセザンヌの画業は始まった。光を追い求めた印象派とは完全に軸足が違っている。私たちが見ているものは現実ではなく、脳が受け止め組み立て直したものだ。脳は思考する機関であり、自分の解釈を成り立たせる機能が脳の仕事だろう。脳は単純に現実を映す鏡ではない。私たちの脳は、自分の受け取った事象を解析し直して、感動する、しない、言葉にする、しない、などと自分なりの納得に至る。つまり、脳は目の前に見えているものを自分流に創造しているのだ。だから何もかも光に還元する作業は、セザンヌは興味がなかった。刻々移ろう光を追いかけて何になる。レンズに任せておけばよいことだろう。人間の目はカメラではない。光の受容客体ではない。光のコードの組みあわせを解体し、自分の音を見つけ、音楽に創り上げることではないか。光の印象を完成させるのは脳なのだ。無機質なまでにつっけんどんなセザンヌの絵を見ていると、俺の仕事はここまで、あとはあんたが好きに感じてくれとばかり、放り投げられた気がする▼リルケが1907年5月から11月まで、妻に宛てた手紙「セザンヌ書簡」がある。リルケの「マルテの手記」時代だ。彼は「地下室生活者」とも言える受苦の時代に、セザンヌの絵について膨大な手紙を綴っていたのだ。どこが響きあったのだろう。「私はますます、果実の中の核のような生活に入っています。そこに私の本当の幸せがあるように思いますから。自己のすべてを一つの中心に引き寄せ、誰の目にも見えぬ暗黒の仕事の中に、あらゆる力を凝集するのです。このような生き方が私の、最後の、唯一の方法だということがだんだんはっきりしてきました。こうして初めて私は生活のつらさを蜜に変えることができるのです。私はただ私の書き物机に向かっています。その他は一切何もしません」。これがセザンヌの手紙だったとしても不思議とは思えない。画壇から一線を画し、有名も無名も、理解も無理解もあてにせず、というより無視して、書き物机をキャンバスと置き換えたら、そのままセザンヌの仕事に当てはまる。「セザンヌの仕事はごまかしようのない存在者を色彩の内実に集計することだ。セザンヌの物たちは色彩の向こうで、古い記憶を延長するのではなく、新しい実存を始めるのだった」。これに付け加えるものがあるならなんだろう。そう思いながら映画をみることにしました。